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北海道馬鈴薯でん粉物語

馬鈴薯でん粉工場の産・排出資源の利活用 工場排水や排出液などの活用

田植機や自脱型コンバインが開発され、水稲の機械化一貫体系が成立したのは昭和45年(1970)である。我が国は経済大国であったから、全国の水利システムも完備し、水不足に悩むこともなくなった。水騒動などは遠い昔の物語である。ところが、国民の食生活が変わり、米の1人当たりの消費量が半分になってしまったことから米余りの時代を迎える。政府は転作奨励金を出して減反政策を推進することになった。皮肉なもので一転してコメの生産を抑制せよと言うのである。
せっかく整えた水利の利用が少なくなってしまうことは問題である。欧米では畑地かんがいが盛んに行なわれているので、我が国でもこれを検討してはどうかとされた。そもそも我が国は降水量の多い湿潤地帯であるので、畑地かんがいは無意味だとする反論があった。欧米の場合は、降水量が少なく、畑地かんがいに依存しなければならない地域が多いので、我が国とは条件が異なるとされた。
我が国ではほとんど畑地かんがいが行なわれていなかったので、実験してみる価値があると十勝や網走で試してみることになった。政治的な思惑もあったであろうが、要所に配管するなどしてかなりの規模の実験であった。案の定、十勝では散水によって地温が低下し、減収したなどと報告された。ところが、畑地かんがいは無理かと考えられたが、時代が変わると北海道に野菜作が増えてきたのである。交通や運輸が発達し、短時間で大消費地の内地に輸送できる。北海道は農家の経営規模が大きいので、一定の品質の野菜を大量生産できる。大手のスーパーは安定供給を求めるので、北海道の野菜の需要が拡大した。
野菜作については、畑地かんがいは重要な役割を果たす。苗を移植して干ばつが続けば活着は困難になる。こんな場面で散水すれば、安定した生育を示すものである。野菜作の振興によって畑地かんがいの位置づけは高まり、必要不可欠なものとなった。畑地かんがいは野菜作によって救われたと言えよう。全道に普及するようになった。
さて、十勝や網走の配管はその後どうなったであろうか。まだ野菜作が増えていない時代のことであり、なんとか活用できる道を探さねばならない。そこで地力増進を兼ね、でん粉工場の排水を草地や畑地に散布するのがよいとされた。さっそく内容を分析し、どれくらい散布するのがよいか現地試験が行なわれた。効果が認められ、実際に農家に散布することになった。

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