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北海道馬鈴薯でん粉物語

後記

昭和48年(1973)に帯広市役所から十勝の有識者が召集された。昭和58年(1983)が帯広の開基百年記念のため、この際、後世に残るものを建設したい、予算は16億円準備しているとのことであった。何度か会議があって、種々検討された。十勝が全国的に有名なものといえば、やはり畑作農業、酪農、畜産である。広い耕地に恵まれて日本一の大規模経営を展開し、内容も充実している。とすれば、改めてこれを全国に表明し、注目されるものがあってよいとされた。
我が国には、郷土博物館などは各地に数多く建設されているが、技術的に整理し、過去から現在、そして未来へと続く技術博物館はほとんど建設されていない。歴史の古い国ほど歴史を大切にし、技術博物館を充実させている。それは、豊かな創造性を育成するために必要なものと考えているからである。
食糧が安定的に生産されて人は豊かな生活を営める。十勝はどのように食糧の生産に携わってきたのか、過去から現在への技術系譜を整理してそこから将来、どのように生産を発展させるべきか思考する技術博物館があってよいとされた。十勝の人はそこから改めて自分たちの存在価値を認識するであろうし、全国にその内容が認められれば多くの人が視察に訪れるであろう。全国との交流が多くなれば、お互いがさらに切磋琢磨する雰囲気も醸し出されようと結論づけられた。
農機具等調査収集委員会が結成され、さっそく活動に入った。十勝農業協同組合連合会が休日であれば、クレーン付き4tトラックを自由に使ってよいと協力を申し出たので、この好意で農機具や生活用具などの収集を開始した。農家の協力もあって収集は順調であった。ところが、途中から様相がおかしくなってきた。市は市民のための文化センターとしても使いたいと、割譲を申し出てきた。当初、2分の1ということであった。だが、技術博物館として使えるスペースはいつの間にか8分の1になってしまっていた。これでは形をなさないと抗議すると、約束事であるので市はいずれ本物を建設する、ここは穏便にとなだめられてしまった。市は市民優先とするが、どこにでもあるような百年記念館で何が意義があるというのであろう。記念館の本質を理解していない。
夢破れたときにスガノ農機(株)の先代社長の故・菅野祥孝さんが、工場跡地が売れてまとまった資金ができた、これを有効に使いたいと言ってきた。ヨーロッパには一緒に何度か訪れているので、技術博物館を作るのはどうかと提案すると、土を耕す技術博物館を建設することで一致した。

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