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人生・農業リセット再出発

墨国と交流発祥の地


遭難から1年後、家康の英国人顧問ウィリアム・アダムス(三浦按針)が帆船をドン・ロドリゴに提供し、浦賀からメキシコに向けて出発、3カ月半もかかってアカプルコに帰還する。京の商人・田中勝介ら23人の日本人も乗船し、翌年にはスペイン国王の命を受けた答礼使を伴って帰国する。名目は救助のお礼と日本近海の調査だが、スペインと敵対するオランダから、彼らの目的は日本侵略だと吹き込まれた家康が態度を急変させて冷遇する。
途方に暮れた一行は、仙台の伊達政宗に声をかけられる。政宗の目的は表向きスペイン本国との通商交渉だが、世界最強の国と軍事同盟を結んで徳川倒幕を画策するものだった。支倉常長ら180人の臣下を乗船させ、メキシコ経由でスペインへ送り込む「慶長遣欧使節団」である。
フェリペ3世国王のスペインは世界最大の植民地帝国だった。常長は1613年10月28日、石巻・月の浦から出帆。メキシコを経て欧州へ渡り、1年半後にようやくスペイン国王に謁見している。常長らは初めて太平洋と大西洋の両横断に成功した日本人となった。2年後にローマ教皇パウルス5世にも謁見したが、不運にも日本はキリスト教弾圧が始まっていたので交渉は失敗して、7年後に失意の帰国をする。幕府はスペイン船の来航も全面禁止、ドン・ロドリゴ遭難の史実も語られることなく歴史から忘れ去られていく。
江戸幕府崩壊3年後の1871年12月、明治新政府の岩倉具視など重鎮が1年10カ月もの長期欧米視察旅行に出かける。横浜から米国の蒸気船で太平洋横断、米国滞在8カ月、大西洋を渡って欧州にたどり着く。岩倉一行は、日本が欧米に立ち遅れていることを思い知らされて劣等感に苛まれる。そのとき、250年も昔の常長ら外交使節団の欧州に遺されていた壮大な事跡や『日本見聞録』に出会う。一同は大いに驚き勇気づけられる。
帰国後に千葉でスペイン帆船が遭難した逸話が世間に広まる。1888年、日本が諸外国と通商条約を結んだ中で、メキシコと締結した日墨修好通商条約は初めての平等条約になった。駐日大使館の中でメキシコ大使館だけが千代田区にできた。その後メキシコへの移民は1万人を超え、子孫の日系メキシコ人が各地に住んでいる。
1928年、ドン・ロドリゴが漂着した岩和田海岸の高台に、日本・スペイン・メキシコ交通発祥の地として記念碑が完成し、徳川侯爵、スペイン国王、メキシコ大統領の筆が刻まれた。1978年、メキシコ大統領が御宿町を訪問し、「エルマーノ!兄弟よ!」と御輿の上から日の丸の扇子を振った。家康が果たせなかった日墨交易の夢から400年が経っていた。

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