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特集

ルポに登場したあの人はいま(2)【東北編】

前号に続く「新・農業経営者ルポ」の再訪企画の続編は東北の4人に登場願った。うち3人が福島県と宮城県在住ということもあり、2011年3月に起きた東日本大震災の影響を色濃く受けている。 そんななかで彼らはどう動いてきたのだろうか。

震災に見舞われても超多収品種に
向けた育種をいまも続ける

東北の酒蔵に愛される酒米「ひより」。その育成者である宮城県岩沼市の稲作農家、平塚静隆氏を取り上げたのは2005年3月号においてだ。それから12年。この間、東日本大震災が起きた。平塚氏はいまも育種を続けているのか、そうであればどんなコメを作ろうというのか。雪が舞い散る海浜の町を訪ねた。

平塚 静隆
(宮城県岩沼市)
プロフィール
1956年、宮城県岩沼市生まれ。農業高校卒業後、就農。80年代、ササニシキの突然変異種「ごこく波」の品種登録をきっかけに、酒米の世界に魅せられる。99年、ササシグレと山田錦の交配により酒米「ひより」を開発。宮城の純米吟醸酒「ごこく波」や純米大吟醸酒「愛宕の松ひより」の原料として好評を博す。

【育種との出会いは農業高校時代】

本誌で12年前に本編の主人公を紹介したルポのタイトルは「酒米育種への挑戦は豊かな人生の証し」。この記事によると、平塚氏は農作物の作り手でありながら、個人で稲を育種するブリーダーでもある。筆者は10年以上にわたって全国で農業の取材をしてきたが、他品目では個人育種家の存在を知っているものの、稲では聞いたことがない。
平塚氏は代々続いてきた農家の長男として、父に言われるままに農業高校に進学。卒業後は実家でコメと野菜を作ってきた。
人生をかける大事に遭ったのは農業高校時代。それは「草型育種」だった。品種改良で作物の葉の角度などを調整することで、受光率を高めて収量を上げることを目指すという育種の技術である。後ほど知ることになるが、少なからぬ日本人がまだ満足に食べることができなかった1956年生まれの彼にとって、日本人の主食であるコメの収量を高めるということは農家としての原点だったのである。ただ、後ほど述べるように平塚氏が最初に育種したのは酒米だった。

【楽しみの農業】

平塚氏にとって育種とは何か。これに関しては彼の「リッチになりたい農家」という言葉がある。先のルポを執筆した作家の田中真知氏がその意味を尋ねている。
「ひとがお金を得るのは豊かになるためですよね。だったら、最初からお金とは関係なく豊かになればいい。だから『リッチになりたい』というのは、お金をもうけたいということではなくて、自分が精神的に満足を感じられる農業を目指したい、ということなんです。お金はもうからなくても、やっていて楽しい農業をしたい」(本誌2005年3月号より抜粋)
このルポによれば、平塚氏はいまの日本農業に違和感を持っていた。それは、特定の作物を大量に生産することくらいでしか経営を維持していけないということ。そうしたコスト競争に巻き込まれず、金を稼ぐことをしながら、楽しい農業を目指すことにしたそうだ。そのために平塚氏はコメや野菜を作って現金を稼ぎながら、一方で稲を育種するという楽しみを持つことにした。

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