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【亜麻物語】
大麻から亜麻へ
- 農学博士 村井信仁
- 第1回 2017年01月30日
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はじめに
亜麻が我が国にもたらされたのは、元禄時代と言われている。当時は薬草園で薬用として試作され、繊維としてはほとんど注目されていなかった。幕末になって繊維作物として輸入され、函館近傍七重(ななえ)村(現:七飯町)のガルトネル農場で栽培を開始した。その後、開拓使が試作を繰り返し、北海道の気候風土に適している作物であることを確認した。
それまで栽培されていた大麻よりも内容的に優れ、企業化しやすいことから、北海道庁がこれを積極的に推進することになった。北海道に亜麻工場が建設されたのは、1887(明治20)年である。
【開拓農民の貴重な現金収入】
亜麻の栽培は、会社と農家との契約によって行なわれたが、行政上の支援もあったので、農家は安心して栽培に取り組むことができた。開拓農民にとっては、夏に現金収入があったので、生活の上で魅力的な作物であった。
亜麻の繊維はロープや帆布に利用されたので、軍の需要が多かった。それだけに景気は戦争に大きなかかわりがあり、大きく変動した。亜麻工場は戦争に翻弄されて、盛衰を繰り返すが、反面、企業努力で難局を乗り越える方法を身に付け、逞しく成長したとも言える。ヨーロッパからいろんな技術を導入し、常に新しい技術を組み立てることに努力した功績は高く評価できる。
北海道農業は亜麻工場や製糖工場、馬鈴薯でん粉工場などの企業努力によって、技術水準を高めてきた。この点、豆類は北海道の基幹作物であるにもかかわらず、自由相場の中にあって、企業の介入はない作物である。どちらかと言えば技術は停滞しがちである。技術の開発は農機具メーカーが担当するものとされても、栽培が組織化されていないと、なかなか取り組めないものである。
【北海道農業の技術発展に貢献】
そんな中で、我が国独自のビーンハーベスタが農機具メーカーによって開発され、豆刈り作業の大きな労働負担から解放されたのは、亜麻会社があったからである。1961(昭和36)年にベルギーから輸入された亜麻抜き機は、その技術水準の高さに驚かされたが、それが一つのヒントになって、ビーンハーベスタは形を整えた。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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