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亜麻物語

大麻から亜麻へ


メソポタミアもエジプトも大麻や亜麻を使い出したのは古い。紀元前3500年前のミイラに亜麻布が巻き付けられているのが発見されている。旧約聖書にも亜麻リネンについて記述が多いので、亜麻や大麻の栽培が文化生活を営むことに大きく貢献したと言える。
エジプトが古代から亜麻を栽培し、布を織る技術が発達していたにもかかわらず、これがあまり広められなかったのは、エジプトは海外との交流が少なかったためと言われている。紀元前2000年ごろからメソポタミアやエジプトの技術がギリシャやローマにもたらされ、以後急速に発展し、フランスやイギリスへと到達するようになる。

【大麻から亜麻へ】
我が国には、大麻は古くから繊維作物として入ってきており、種類も多い。繊維・糸・綱・網・帆布・衣服・ズック・ホースなど用途は多様である。亜麻が繊維作物として栽培されるようになったのは、明治以後であり、比較的新しい。次章図3に大麻と亜麻の作付面積の推移を示したが、北海道では、亜麻が栽培されるようになって、大麻は1899(明治32)年を最後に栽培されなくなっている。全国的には、 大麻は少しずつ減少はしているものの、栽培は継続している。繊維作物として歴史があるだけにそう簡単には消滅しない。
北海道における亜麻作は、明治維新の殖産興業の施策によって組織的に面積を拡大し、亜麻工場も最新式の機械を整備した。亜麻の導入前から栽培されていた大麻は、主に屯田兵村で栽培された。開拓使の支援がまったくなかったわけではなく、製麻法が稚拙であったことから、1871(明治4)年以降、栃木や新潟、岩手などから技術者を招聘(しょうへい)し、札幌その他で栽培法・製麻法を伝習させている。種子や製麻器具も導入された。
1876(明治9)年には対雁(ついしかり)(現:江別市)の製網所で屯田兵が冬仕事で製造した麻苧(あさお)(繊維)を買い上げて魚網原料糸を紡いでいる。1880(明治13)年度の麻苧の生産量は3万912kg、網の生産量は15万4326mの記録がある。大麻の栽培、製麻は養蚕とともに屯田兵の重要な授産事業であった。こうした経験が亜麻作への移行を円滑にしていると考えられる。

[2]亜麻工場建設の経緯

(1)明治初期の繊維作物の栽培
【亜麻栽培の始まり】
幕末のころ、我が国は諸外国から開港を迫られていた。北海道も例外ではなく、特にロシアが南下して交易が始められていた。1867(慶応3)年にロシア船が函館に入港し、いろんな農産物を持ち込んだ。ライ麦・エンバク・ソバ・エンドウ・大麻・亜麻の種子が1俵ずつあり、幕吏が札幌村の開拓者、大友亀太郎に試作を依頼したと言われる。

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