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亜麻物語

大麻から亜麻へ


亜麻は目新しい作物であったので、添付されていた書類を翻訳して栽培法、紡糸法、粕・油の利用法を明らかにしていた。大友亀太郎が実際に栽培したかどうかは不明であるが、当時、繊維作物として栽培していた大麻に匹敵するものであるかどうか、関心が強かったようである。
1868(明治元)年にプロシア人ガルトネルが函館に近い七重村に広大な土地を租借して農場を開設した。そこでは亜麻が栽培されており、その後、開拓使はガルトネルが残した亜麻を引き続き栽培した。繊維を商品化するには至っていないが、これが亜麻栽培の始まりである。
ガルトネルは本国から農具を購入し、ヨーロッパ式農業経営を実証しようとした。開拓使は北海道にアメリカの技術を持ち込み、洋式農業を展開しようとしていたが、これに先駆けるものであった。ガルトネル農場は、事情があって日本政府が1870(明治3)年に引き取り、政府の七重開墾場とした。
開拓使はアメリカ・ロシア・イギリスなどから亜麻の種子を輸入し、七重・札幌・根室・東京の官園で試作を続けた。1871(明治4)年に開拓使の顧問であったアメリカ人トーマス・アンチセルが七重開墾場を視察した折り、亜麻が見事に生育しているのを見て、次のように助言している。
北海道農業は日常の生活に必要な作物の栽培を第一とするが、次いでは貿易できる作物を栽培するのが急務である。大麻や亜麻は網具を製作するのに最適である。試作段階のものを最早に農家に作付けさせるべきである。亜麻は子実から油を生産できるが、細美な糸の生産には付加価値があり、利益も多い。

【栽培法や製麻法の地固め】
1873(明治6)年には亜麻製造用具として、足踏式砕茎器や人力式製線器を図示したものを提示、試作を勧めている。各官園での亜麻の試作は順調であり、1879(明治12)年には、栽培法はもちろんのこと、茎の浸水法・製線法についても、試験している。
1878(明治11)年に駐露公使であった榎本武揚が5年の任期を終えて帰国した。このときロシアにおける製麻法とともに人力製線器を持ち込んだ。さっそくこれをモデルにした製線器が製作され、札幌官園で供試された。この製線器は先にトーマス・アンチセルが図示したものとまったく同じであったと言われる。
1876(明治9)年から一般農家にも亜麻の種子を配布し、農家段階での試作も行なわれるようになった。その結果、亜麻は北海道の気候風土に合う作物であることが立証され、着々と亜麻生産の地固めが行なわれてきた。

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