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新・農業経営者ルポ

キタアカリやトヨシロを生んだ元育種家の父の教えを守り、ひたすらおいしさだけを追求


「とにかくイモが大好きな親父でしたね。食べることも、作ることも、語ることも。イモ一色です。家族で会話することはそんなに多いほうではなかったですけど、イモの話題になると畑や天候のこととか、試験場の来客者のイモとのかかわりとか止まりませんでしたね。野菜にも関心があって、海外に行くとなると○○の種が欲しいだのなんだのと言っていました。自分がどこかに旅行すると伝えれば、現地の情報を集めてこいみたいな感じです。いまでは自分にもそんな節がありますけどね」
芳樹が家庭菜園に精を出していたころ、拓は勤務先の食品会社がある小樽に家族と住んでいた。休みになると北広島の実家を訪ね、芳樹の振る舞う手料理に舌鼓を打った。
「親父が作るジャガイモの味の良さは一人暮らしをするようになってから気づきました。とにかく味が濃かったんです。野菜もそうですね。
でも、自分以上にそれを認めていたのが小学校に上がる前だった息子の恵多(現・高校3年)です。おじいちゃんっ子で、電子レンジやカセットコンロのある親父の部屋に二人でこもってはいろんなものを作って食べていました」
そんな折の02年、芳樹が心筋梗塞で倒れる。このときは一命を取り留めたが、命の心配と同時に拓の心中にはあることが去来した。
「これからも親父が作るジャガイモを食べたい」
ならば技術を学んで自分で栽培すればいいと、会社勤めの傍ら毎週末、芳樹と1反にも満たない場所で少量多品目の野菜づくりに励む。次第に心が農業に揺れ動くと、04年にあった職場の異動の内示を機に退職し、同年から1年間、千歳の農家で農業研修を積んだ。翌05年にはすかさず当地で4.7haの農地を購入し、新規就農するに至った。

就農2シーズン後に父が他界

芳樹は経営に一切参加せず、アドバイザーの立場で協力してくれることになった。
「収入が不安定なときはなんとかするから」
就農は拓が自ら選んだ道とはいえ、こうした芳樹の計らいは彼を大いに安心させた。ところが、それも長くは続かない。2シーズン目を終えた06年の12月、病気を患っていた芳樹は帰らぬ人となった。
「目の前が真っ暗になりました。始まった途端にどこかへ行っちゃったものですから、どうすりゃいいんだろうって」
しかし、芳樹は短い期間であっても歩むべき進路を示してくれていた。
「元々自分が農協や市場にまったく出さないでやっていこうと決めていましたけど、その前に親父には金儲けは悪だみたいなところがありましてね。考えようによっては悩みますけど、それで自分はおいしいものを作ることだけに集中できました。販売も、1年目と2年目に親父が顔見知りにあっせんしてくれたことで販路が徐々に広がっていきました」

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