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亜麻物語

栽培法(2)除草・防除・収穫

1)除草
除草剤の導入
亜麻栽培は散播、あるいは密条播であるだけに除草は大きな労働負担であった。第二次大戦後、我が国に除草剤がもたらされたが、除草剤の施用については、少なからず抵抗があった。生育する作物に果たして障害がないのか疑問視されたためである。第二次大戦中に化学兵器を生産する過程で発明された経緯を聞くに及べば、やはり素直に利用する気にはなれなかったものである。
こうした疑問を払拭したのは亜麻工場である。除草に苦労していたこともあろうが、いろんな情報を取り寄せて、積極的に除草剤の施用に取り組んだ。亜麻工場の努力があって、除草剤は他の作物にも施用されるようになったと考えてよい。
第二次大戦中は石鹸にも不自由し、風呂に入ることも少なく洗濯も十分に行なわれなかったので、国民の衛生状態は悪かった。蚤(のみ)ばかりでなく虱(しらみ)も発生することが多かった。これを退治するのには、除虫菊を粉にしたものを播いたが、あまり効き目はなかった。
戦争が終わって進駐軍が配給した粉剤のDDTの効き目は驚異的であった。集会所などで頭から真白になるほどぶちかけられて、蚤や虱は壊滅できた。現在DDTは人体に影響があるとして製造禁止である。信じられないようなことが行なわれたとしても、新しい薬剤については絶対的な信頼を寄せたものである。
除草剤の散布をどうしたかと言えば、試験では人力背負噴霧機である。大規模畑作地帯では、製糖工場が畜力噴霧機を輸入し、請負で防除していた。高能率で防除効果の高い畜力噴霧機の効用が認められると、国産化されて、広く使用されるようになっていった。

除草省力化の時代
昭和30年(1955)になると、小型空冷エンジンや動力噴霧機が発達して水稲にかなり使用されるようになってきた。畜力噴霧機も高水準化すべきとされ、畜力噴霧機にエンジンとポンプを搭載する半自動化方式が検討されるようになってきた。それまでは車輪から動力を取り出しポンプを駆動していたが、これが動力に切り替わったのである。牽引する馬はそれだけ楽になったので、そのぶんタンク容量を大きくした。散布幅を広げ、高圧噴霧も可能になったので、高能率防除が可能になったばかりでなく、防除効果も高まり、大規模畑作地帯では集団でこれを入手し、広く利用するようになった。トラクタスプレーヤを導入する前の半自動化の時代である。
帯広の亜麻工場では、昭和35年(1960)から車載型動力噴霧機で除草剤散布に取り組み、除草剤散布方式を確立し、この普及に努めた。除草剤が有用であり、安心して使用できるものであると分かれば、農家は除草剤を使用するのを躊躇(ためら)うことはなかった。

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