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亜麻物語

栽培法(2)除草・防除・収穫


この高能率は高く評価されたが、雑草の混入に悩まされ、結局、あまり使用されることはなかった。昭和35年(1960)を過ぎて、除草剤の利用が一般化して、この機械も利用可能とされるようになってきた。やはり新技術を手中にするには、機械の使える条件設定が肝要であり、時流を待つ必要もある。
昭和36年(1961)に北海道庁の甜菜特産課の山田勝美課長補佐が糖業調査でヨーロッパに出張した際にベルギーに足を伸ばした。亜麻収穫期の真っ盛りで大型収穫機による亜麻収穫を見て、これを輸入すべきと考えた。
昭和42年(1967)に亜麻の栽培を終えるので、その6年前のことで、亜麻工場が撤退を始めているときである。何とかこれを食い止め、亜麻栽培を存続させるには、大きな労働負担であった亜麻収穫を合理化するのが便法と考えたと言われる。
当時、北海道では小型収穫機の実用化を図って、機械収穫の可能性を見出しているときである。一般的には人力による手抜きの収穫である。収穫適期は7月の下旬で1週間の間に収穫しなければならないとされていた。10aの亜麻を引き抜くのには、男手2人で丸1日を要するのが実態であった。これに対し、1日5haの作業能力を持つ収穫機を導入すれば、画期的であり、亜麻作の存続に大きな説得力を持つと考えたのは当然のことであろう。
ベルギーも第二次大戦後、トラクタ営農機械化が進展し、農業技術も改革され、新しい時代を迎えていた。我が国のトラクタ営農は、昭和26年(1951)年に始まる。当時、我が国はまだ戦争後の復興期にあり、外貨も少なく、トラクタを輸入するには制約があった。ようやく外貨の割当があって、9.75馬力のトラクタ10台、ジープ5台を輸入することができた。北海道とヨーロッパでは20年以上の技術較差があると言われたものである。それから20年経過した昭和46年(1971)に至って、ヨーロッパ並みのトラクタ営農時代を迎える。

大型機導入と亜麻生産中止
昭和36年(1961)から昭和38年(1963)にかけて大型収穫機を64台輸入した。特別優遇措置で無税の政府資金(近代化資金)の融資があって、64台も輸入することができた。除草剤が使える時代になっていたので、雑草に苦しめられることはなかったが、畜力機械で整地さ れている圃場は、凹凸があって、収穫機の能率作業を阻むことが多かった。しかし、収穫機を円滑に作業させるためには、圃場を整備する必要があると分かれば、それなりの手当てをするものであり、次第に所期の能力を発揮するようになった。

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