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大型収穫機は写真2(主要諸元も)、作業状態を写真3に示した。収穫作業に慣れると、諸元にあるように1日当たり5~7haの収穫は可能であり、農家は新時代の到来を喜んでいた。表2は慣行に対する機械化の所要労力の比較である。機械化によって労力は3分の1から4分の1に短縮されることが分かり、機械化の威力を十分にアピールしている。当時はポテトハーベスタやビートハーベスタも輸入されはじめ、機械化活況を呈しはじめているが、亜麻収穫機は亜麻工場が取り扱いに組織的に対応し、収穫機の能力を発揮させることに貢献した。
しかし、亜麻作の近代化に明るい見通しがついたにもかかわらず、時代の趨勢には流されるしかなかった。昭和42年(1967)で栽培は終わり、工場はすべて撤退である。北海道農業の発展に大きく貢献しながら終末を迎える。
さて、農家は亜麻収穫機に大きな投資をしたが、償却する前に工場閉鎖では大きな負債となってしまった。行政は亜麻工場の再生や農家負債の救済について奔走したが、なす術がなく汚点を残している。
ビーンハ―ベスタへの貢献
亜麻収穫機はその性能において、農業関係者に大きな衝撃を与えたが、実は豆類の収穫機の開発にヒントを与えている。当時、豆刈りは手刈りで行なわれていたが、持つ・歩く・屈むの三重苦の作業で昔から豆刈機の開発が要望されていた。昭和35年(1960)にトラクタ用ビーンカッターが開発されて期待されたが、一定の条件で整地播種されておらず、ビーンカッターの能力を安定的に発揮させることができない状態であった。また、現在のように特殊鋼が使える環境ではなかったので、刈刃の磨耗が激しく、実用に問題ありとされた。ビーンカッターはその後20年経過し、構造を変えて復活、ビーンカッター時代を迎えるが、刈り取りの機械化の可能性を示唆するに留まってしまった。
何としても豆類の機械刈り取りをしたい、しなければならないと農機具メーカーが競り合うようにして刈取機の開発に取り組んだ。そのときに登場したのが亜麻収穫機である。ベルトで挟んで亜麻を抜き上げ、そのまま後方に搬送し、圃場に落とす。この技術は衝撃的であった。
発明はぼたもちと言われるが、そんな単純な思い付きのものではない。どうしよう、こうしようと絶えず頭の中を走り巡らせているので、わずかのヒントも見逃しはしない。亜麻の収穫機を見て、茎葉をベルトで挟んで抜き上げる寸前で根元を切断すればよいとして、さっそく試作に取り組んだ。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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