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人生・農業リセット再出発

世界的シェフ誕生秘話


「三國君は私が総料理長だった当時、帝国ホテルにやってきた。正社員の枠がなくてパートで採用したが、やる気があって、よく気がつく男だった。何にでも一生懸命で、欲があった。駐スイス大使が専属コックにいい人はいないか?と打診してきた時、頭に浮かんだ何人かの候補者の中から、私は三國君を選んだ。三國君はまだ20歳の若者、しかも帝国ホテルでは鍋や皿を洗う見習いだったため料理を作ったことがなかった。なぜ三國君を推薦したのか。彼は鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。ちょっとした雑用でもシェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。私が認めたのは、塩のふり方だった。厨房では俗に「塩ふり3年」と言うが、彼は素材に合わせて、じつに巧みに塩をふっていた。実際に料理を作らせてみなくても、それで腕前のほどが分かるのだ(村上信夫著『帝国ホテル厨房物語』より)。
1973年、最高峰の帝国ホテル・村上信夫料理長の推薦でスイス日本大使館の料理長に就任。大使館勤務のかたわら、フランス料理界の重鎮のもとで修行を重ね、三ツ星レストランなどで多くの経験を10年積んで帰国。迎賓館前に瀟洒な邸宅風の「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業。快進撃は推して知るべし、北海道の15歳の少年から始まった料理人は、世界的な活躍で名声を得てフランスの大学から名誉博士号を贈られる巨匠になる。
「僕は昨日の最高はサラリと捨てる。今日の気持ちのたわむれで新しい自信を創る。毎日僕たちが生きていけるのは毎日が変化しているから。僕は素材と自由に対話できる。もしタイならばタイと僕は平等でなければいけない。僕がタイと対等に話さないと僕の方が勝ってしまう」
先日、ロシアに占拠されている国後島が直ぐそこ17km先に見える別海(べっかい)町で、このコラム読者に呼ばれて講演してきた。近いコンビニが10km先、面積は東京都の2倍以上、温泉が湧き出て、牛を1,000頭も飼っている酪農家はざらにいて、日本の牛乳生産量の6%以上を別海だけで生産しているとか。牧場の創作チーズを幾種類か預かってきた。東京OLYMPIC総料理長に内定している三國さんに食してもらって、その価値を図々しくも直に確かめようという魂胆で明日会うことになった。日本の西洋風な味文化も輸出する時代にしたいものだ!

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