ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

「土を考える会」を考える 前編


菅野祥孝は製品を販売すれば必ず農家を訪ねていた。製品が農家を満足させているかどうかを確かめながら、その農家との接触において農業を勉強していた。地域の農業を極めることはメーカーとしての誠意であり、責任であると考えていた。
昭和40年代の中ごろになると、畜力時代は終わりを告げ、トラクター営農時代である。トラクター用作業機はすべてが国産化されて、さらなる高水準化が要求されていた。当時のメーカーは工場を年間フル稼働させるために、春農機具、夏農機具、秋農機具の3機種を抱えていたが、高水準化時代に対応しようとすると、機種を少なくして専門化する必要性に迫られてきた。
もっとも、プラウの場合、春にだけ使われる時代ではなくなっていた。稲作転換で小麦作が奨励されるとプラウは夏でも使われる。機械化体系が整備され、時間に余裕が生まれると秋起こしも盛んに行なわれて、秋にも使われることになれば、プラウに専門化しても経営は成り立つと考えられた。しかし、専門家は良いとしても、広い地域の土性を掌握するには一抹の不安が付きまとった。
この場合、篤農家は土づくりの技術に長けていて、土地の生産性が高い。必然的に利益も多いので、農地を購入し、規模拡大している。各地の篤農家の話を聞く会を開催するのも便法と考えられた。昭和53年6月に20名の農家が上富良野町のスガノ農機(株)に集められた。それぞれの創意工夫の農法について披露したが、篤農家の話は篤農家が理解するもので、それぞれが感銘を受けてこのような会を毎年開催しようとなった。スガノ農機(株)にもいろんな注文が寄せられたので、課題解決には鋭意取り組むと約束した。
当時、農業機械の過剰投資論が話題になり、展示会の開催などには農業団体から自粛が強要されていた。昭和54年には講演会はもちろんのこと、実演研究会も開催されたので、技術吸収に飢えている農家には極めて好評で大勢の農家が参加することになった。メーカーとユーザーが一体になって新しい技術の研鑽を積むきっかけとなり、やがて「全国土を考える会」に発展する。

【スガノ農機(株)の耕す技術の発展】

企業は何を以て社会に貢献するか、それは技術を開発し、農業の発展に寄与することである。利益は結果であり、その利益は地域の文化に還元する、と菅野祥孝社長の理念は明快であった。昭和28年はトラクター用プラウの模倣期、昭和38年はプラスチック撥土板開発期、昭和48年は大型トラクター用プラウのフレーム構造改良期、100馬力級トラクターのプラウ開発期、昭和58年はリバーシブルプラウ開発期、平成5年はアクスルプラウ開発期、プラソイラ開発期、平成15年はレーザーレベラー、水田プラウ開発期とほぼ10年ごとに新製品が開発されて時代の要望に応えている。

関連記事

powered by weblio