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亜麻物語

亜麻生産80年の動向

(1)作付面積と茎収量

亜麻の作付面積と茎収量の推移を図1に示した。亜麻製品は日常品としても使われたが、軍需産業的色彩が強い。帆布やテント・ロープ・軍服などの需要が多いので、事変が発生すると作付面積が増え、茎の収穫量も多くなる。平和になると激減し、亜麻工場が撤退することもあった。
第一次大戦の場合、ヨーロッパは戦乱の渦に巻き込まれて食糧も不足し、世界中から食糧を買い漁る事態となった。亜麻製品の輸出も多くなった。北海道からはエンドウや菜豆(さいとう=インゲン)、バレイショ澱粉などの農産物が通常の5倍ほどの価格で輸出されたので、北海道の開拓農家は大いに潤い力を付けた。本格的な洋式農業の展開は第一次大戦を契機にしている。甜菜製糖工場は明治13年(1880)に伊達紋別に建設されたが、四苦八苦でまともに砂糖が生産されなかった。明治21年(1888)に新たに札幌に製糖会社を設立し、明治23年(1890)に製糖を開始したが、これも結局は挫折であった。伊達紋別の製糖工場も明治28年(1895)に操業中止である。これが大正9年(1920)に帯広、大正10年(1921)に清水に製糖工場が建設され、ようやく順調に砂糖が生産された。工業技術が発達してきたと言えるが、農家も甜菜を栽培する実力を身に付けてきたことによる。紋別の工場建設から40年を経過している。
北海道農業試験場は大正8年(1919)から品種改良、大正12年(1923)に新品種を育成している。帝國製麻は大正9年(1920)から配合肥料の研究を始め、大正14年(1925)から農家に配布し、近代的な亜麻栽培法に貢献している。亜麻は前作の残した養分で生育できるとされていたそれまでの常識を覆している。これらは第一次大戦景気の余勢を駆ってのことであろう。明治は遠くになりにけりと言ってよいと思える。
大正10年(1921)を過ぎるころから景気の反動で以後経済は低迷期に入る。金融恐慌もあって不景気時代が長く続くが、昭和10年(1935)ごろから次第に戦時色が濃くなり景気を回復する。第二次大戦が昭和20年(1945)に終結すると、亜麻栽培は昭和24年(1949)から急落する。
昭和30年(1955)ごろから除草剤が使えるようになり、苦労していた除草は省力化された。密条播ドリルが国産化され、播種精度が高まり、増収に結びついた。昭和36年(1961)には大型の亜麻収穫機が輸入されて、一貫機械化体系が成立したが、化学繊維が怒涛のように跋扈(ばっこ)し、これに抵抗するも生き残ることはできなかった。時代の趨勢(すうせい)に巻き込まれ、昭和42年(1967)をもって栽培は終わってしまった。80年の生涯と言うべきか、明治の開拓期から北海道農業の先達となって農業技術の発展に貢献してきたが、劇的な終わりを告げることになってしまった。繊維作物の栽培を絶やすなと、大麻や亜麻の栽培に取り組む人は今も残るが、行政の梃(てこ)入れも期待できず、企業も動く気配がなければ、亜麻の栽培復活は相当困難であると思える。化学繊維の技術発達が凄まじく、それを屈服させるだけの特典を見出せないのは残念である。

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