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新・農業経営者ルポ

年間30万人にまで来園者数を伸ばそうとする天空の下の花の観光農園


「来るか来んのかわからんのに、こんな辺鄙な場所に花を植えて……。絶対失敗するよ」
周囲の視線は一様に冷ややかだったようだ。それでも、ふたを開けてみれば1年目から5、6万人を動員する大盛況になった。5haの規模で春はチューリップ、夏はひまわりを一定期間咲かせ、秋は大根の収穫体験を実施した。
「一つの花を単一の畑に大量に播くことがほとんどなかった時代でしたので、県内のお客様を中心にたくさんお越しいただけました。それに先立っては学生時分の私も、父のプロモーション活動を手伝わされ、無料券を配布したりとかであちこちに行きましたね。剛毅なタイプでしたよ」
同時多発的に町内の葉タバコや果樹農家でも花の観光農園を開園する。幸い、個々にチューリップ、芝桜、ラベンダー、ポピーとコスモスというように作付品目が異なることですみ分けもでき、世羅が花の観光農園の町に変貌した。
ここで突然の別れがやってくる。96年に昭彦が他界したのだ。吉宗が大学在学中の20歳のことだった。
「まだ後継ぎとか田舎に帰ろうとか何も考えていませんでした。ひとまず、母(八栄美)が後任になり、事業を継続しました」
吉宗は大学の夏季休暇に入ると、地元に帰って世羅高原農場でアルバイトに励んだ。入園口でのもぎりや店舗での売り子、ガイドといった業務を行なうなかで、ある来園者からこんな言葉をかけられる。
「世羅は花もきれいだけど、果物や野菜もおいしいし、空も広くて空気が澄んでいるわね」
花はもちろん、その土台となる気候風土までもが評価された。
「故郷を褒めていただけたのがものすごく心に残りました。それでこれなら少々しんどいことがあっても大丈夫だろうという結論にたどり着いたんです。大学卒業後に農業の知識がゼロの状態で戻ってきました」
習うより慣れろの精神で懸命に仕事に励む。すると、母や従業員から代表理事になるよう勧められ、27歳にしてその大役を引き受けることを決断した。

来園者数を伸ばす
いくつもの“仕掛け”

吉宗の入社と前後し、自社や地域を取り巻く環境は少しずつ変化していた。自社では99年にいちご狩りを始める一方、そのころから世羅にある花の観光農園巡りが評判を呼び出す。02年には自社のチューリップ畑で花園結婚式を挙行した。その後も誘客のためのさまざまな企画を盛り込み、05年には年間来園者数が10万人を突破する。両親や従業員が播いてきた種が花開いた時期といえるかもしれない。

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