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新・農業経営者ルポ

0勝0敗より10勝10敗、世襲禁止も追い風の挑戦し続ける観光農園


84年、隣接する10 haの成園状態のブドウ園が撤退を余儀なくされる。当時、平田の父・克明は広島県果樹試験場(現・広島県立農業技術センター)に勤務していた。鳥取大学農学部を卒業後、長野県農業試験場(現・長野県農業総合試験場)でブドウを研究対象にしたうえでの異動で、落葉果樹全般に知見があった。地元から克明にこのブドウ園を引き継ぐよう要請があると、高齢だった昌明のリンゴ園と併せ、職を辞して経営することを決意する。翌85年に(有)平田観光農園を設立すると、同年にクリやスモモ、プルーンを植栽した。以後も91年に台風災害でリンゴ20万個すべてが落果する事態に見舞われつつも新たな果樹を導入するきっかけとなって通年の観光農園を実現したほか、バーベキュー場の設置や加工品づくりなど、果物が主軸の施設として価値を高め、集客力の向上を図っていった。また、ベースとなる果物の高品質化に克明の技術が寄与したことはいうまでもない。土づくりに栽培管理、とくに減農薬防除では労働時間の短縮と経費節減に直結した。
そんななか、会計事務所で働いていた平田が96年に家業へ移る。不採算部門の整理が目的だった。
「親父が継がなくていいと言うので大学は法学部へ行き、よそで仕事していたんです。ただ、あまりにも急速に経営を拡大するものですから、これでは危ないと思って仕方なく帰ってきました。バブル期に高級フランス料理店を園内に開店したことに加え、直売店2店舗のロードサイドへの出店やワイン専用圃場の運営、加工施設の建設などで借金も膨らんでいましたから、一つひとつ整理して借入の返済を進めました」
軌道修正というと語弊があるようだ。平田の役割は父が歩んできた方向性に寄り添いながらファイナンスを回すことだった。やがてそれも落ち着くと、ちょうど狩りなどの新企画が生まれる第二章が幕を開けることになる。

世襲禁止、
農業外からの若い社員が躍動

平田が入社したときのスタッフはパート従業員と外国人技能実習生のみで構成されていた。人材を育成しなければ将来がないと見て雇用に手をつける。それに先立ち、世襲は自身の代でやめることを決断していた。
「国内の人口が減っていくなかで農業を行なうのは相当な能力がないと乗り切っていけないと感じていました。社員には世襲は禁止だと明言し、完全実力主義こそが人事の要諦だと社内の経営判断基準で示しています。優秀な社員はどんどん昇進させるようにしましたら非常にうまくいきました」

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