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おわりに――将来に備える姿勢の大切さ
明治族の侍精神
殖産興業の振興を高らかに掲げ、北海道が最初に取り組んで成功したのは亜麻産業である。工業にあまり縁のなかった国が取り組むについては、
実に度胸のいることであったと言えるが、明治維新は一種の革命であり、戦乱の渦を乗り越えてきた人たちにとっては、革命の成果として何か新しさに取り組まざるを得なかった。あえて、虎穴に入らずんば虎子を得ずの心境で挑戦したと思える。
北海道は開拓を始めたばかりであり、生活が安定していたというような時代ではなかった。何もかも揃えながらの事業展開で大変であったであろうが、武士の時代が終わり、何かをしなければならない者にとっては、ある面ではやり甲斐のあることであったろう。特に東北の藩は賊軍であったことから新政府には冷遇されており、どこかに新境地を求めなければならなかった。
伊達に入植した人たちは、殿様を先頭に一族郎党揃っての入植である。もっとも新政府は殿様たちの処遇に困っていたので、北海道開拓に乗り出すについては、いろんな優遇措置をしている。あ る面でこれは一つの機会であったろう。交通の便もあったが八雲には徳川藩も入植しており、胆振は開けるのが早かった。
亜麻産業は国策も絡んでおり、亜麻の栽培には積極的に取り組んでいる。初期の亜麻産業発達には、地方とはいいながら、胆振の果たした役割が大きい。明治26年(1893)から近江麻糸が2工場、日本繊糸・日本製麻の4工場が建設されている。
農商務省技師吉田健作はヨーロッパに亜麻産業の実態を調査し、北海道に亜麻工場を建設するために奔走するが、明治族の侍精神を感じとることができる。北海道の亜麻産業は行政・企業・農民一体となって形を整えるが、明治族の気骨、侍ならではの矜恃に畏怖の念を抱かされる。
バレイショ澱粉工業も開拓農村の経済を豊かにするが、この場合は若干体質を異にしている。家内工業的な体質であり、企業が介入するにしても大企業が先導することはなかった。華族や富豪の大農場が比較的大きな澱粉工場を所有する程度であり、発達して澱粉工場を建設するにしても零細企業の範疇であった。大企業の亜麻工業とは好一対の対比で ある。
大正・昭和族の生き様
第二次大戦が終決すると、北海道農業も大きく変貌する。権勢を誇った華族農場は農地改革で消減し、小作農は地主から解放されて自作農の時代を迎える。年貢を納める必要がなければ、農業経営は自分の意志次第と農家は意気軒昂頑張りを見せる。戦後の食糧不足は新しい自作農の努力によって補われたとさえ評価されている。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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