ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

本農業法人協会初代副会長とその懐刀が作り上げたオール秋田ビジネス

秋田のとある小さな企業城下町にはかつて日曜百姓が大勢いた。やがて離農の受け皿になっていく農事組合法人は30~50 haレベルの大規模化の道を歩んだ。それとは対照的に、80年代後半からいまでいう6次産業化に励む二人組がいた。血縁関係のない彼らは、農業で1年中、飯を食っていくにはどうすればいいのかと自問するうち、農産加工に行き着く。さらに、事業は多角化するが、その根底には地元・秋田を愛する気持ちにあふれていた。 文・写真/永井佳史(4ページのみ)、写真提供/(株)秋田ニューバイオファーム

早くから農産加工に
活路を求める

後に秋田県農業法人協会を立ち上げて初代会長に就く齋藤作圓(73)は1971年、県からの派遣でヨーロッパ農業を視察する。そこで目にしたもののうち、感銘を受けたのがオランダのハイドロポニックス(水耕栽培)だった。
一方、今回話を聞いた鈴木幸夫(65)は齋藤より8つ年下で、彼と同じく日本海沿いの西目町でコメを中心にキノコ類を生産していた。
齋藤は87年に鈴木らを誘い、(農)秋田ニューバイオファームを設立する。渡欧をただの視察で済ませるのではなく、施設園芸への挑戦に向けて資金面と技術面を準備していたのだ。手を組んだ二人には共通する課題があった。
「このあたりは積雪地帯で寒冷だから、稲作だと冬の仕事がない。農業で1年中、飯を食っていくにはどうすればいいんだろうと考えたもんだよ。そこで、齋藤は75年から2年間、長野に行ってキノコの栽培を学び、地域に普及させたんだ。いまでは周年栽培になっているけど、当時は夏場に田んぼ、冬場はキノコだった。農協の青年部を引っ張ってもいた彼に付いていたのが俺ってわけだね」
ところが、新たな作物による施設園芸はわずか1、2年で頓挫する。研修先の名古屋周辺は冬にも日照があって暖かかったが、反対に冬になれば決まって曇天続きの当地ではそれは望むべくもなかった。燃料代がかさめばコストで他産地に対抗できない。そんな状況ながら87年と88年に1440平方mの鉄骨ハウス3棟を建てた。主にミニトマトの生産を手がけるも、冬は収穫できず、育苗止まりで終わってしまう。葉物野菜も加えた1年2作の施設園芸は多少の収入増にはなっても、確固たる冬の仕事にはならなかった。
ここですぐに動く。元号が平成になった89年、秋田の郷土料理として知られるきりたんぽ(注:つぶしたうるち米の炊飯したものを棒に巻き付けて焼き、そこから外して食べやすく切った食品。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、みそを付けて焼いたりして食べる)の製造に着手したのだ。
「きりたんぽの発祥は県北で、このあたりでは食べる風習がなかったんだよね。でも、コメの消費量は減っているし、県内では我々の西目なんかが良質米産地として知られていたので、きりたんぽでなんとかできないかと思ったんだ。冬の仕事になるしね」
西目町に隣接する旧本荘市にきりたんぽの製造者がおり、その人からの技術提供があって事業化できた。

関連記事

powered by weblio