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新・農業経営者ルポ

買うならコンバインより製粉機


豆道楽では基本的に自社で作った農産物は最終消費者に直接販売する。コメは道後温泉の旅館でも豆腐とともに扱ってもらっている。夕食ではなく朝食に提供してもらっているそうだ。「旅館の経営者いわく『朝食がうまければ、リピーターが増える』。なぜかといえば、夕食は酒を呑むからほとんど食事に手を付けない客が多い。ただし朝食は別。どんな客も朝食だけはしっかり食べる。だから確かな食材が求められる」。このほか小麦は製粉し、ピザ屋に卸している。
渡邊はもとより個人販売をしていたわけではない。いまの経営からは想像もできないが、かつてはJA愛媛グループのイチゴ部会長を務めたことがある。当時は全量をJAに出荷するのが常だった。共選出荷に参加しない農家には辛く当たってきたこともある。それがなぜ変わったのか。渡邊が農業を始めたころから話を進めていきたい。

県内最大のイチゴ産地を形成

今でこそ作っていないが、西予市にあって渡邊はイチゴの施設栽培では先駆者だ。当時の宇和町(2004年に市町村合併で西予市宇和町となる)といえば稲作農家ばかり。そんな中、イチゴづくりを始めようと思ったのは、熊本県八代市にある大規模な施設でイチゴを栽培する池松彦次郎のもとで研修したからだ。ときは20代初め。イチゴの生産から販売までをこなす池松や周囲の農家から教わったのは、西予市と八代市との農家の意識の違いだ。
「八代の農家はみんなやる気に満ちあふれていた。農業でもうけようという気概があって、とにかく勢いがあった。コメばかり作って、農協に委託販売している地元の農家とは対照的だった」
事実、当時のイチゴといえば贈答品の扱いで、1kg当たりの販売単価は3000円。10a当たりの売上高はコメの15~20倍もしたという。「俺もこんな農業がしたい」。渡邊がそういう気持ちになったのは不思議ではない。
八代での研修を終えて宇和町に戻った渡邊は、さっそく、イチゴのハウスを作るための補助金を役場に申請する。だが、まともにとりあってくれない。役場やJAからは、「八代より寒いから、イチゴの促成栽培なんて無理。第一、品種も技術もない」と取り付く島もない返事ばかりだった。
それでも渡邊は、周りの農家と同じようにコメだけに専念するつもりはなかった。理由の一つは池松に言われたことにある。「稲作はもはや時代が過ぎている。これからは生で食べられるものを作らなければならない」。池松が渡邊に説いたのは、生産した農産物を自ら商品として売る「商品化農業」だった。1970年に生産調整が始まったコメよりも、イチゴを作るほうが賢明だと諭したわけである。

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