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代表の大津は40年の歴史を持つ無茶々園の第二世代に当たり、従業員としてかかわるようになって29年になる。都市生活者や、地域の漁師など異業種とのつながりを作り、地域の経済を回し、雇用を作るという仕組みづくりに携わってきた。
現状の否定から始まった
実験園「無茶々園」
無茶々園の歴史を簡単に振り返りたい。明浜町の段々畑ではもともと麦やイモ、養蚕のための桑が栽培されていた。それが昭和30年代に商品作物としてミカンに切り替えられた。導入直後は所得が伸びたものの、しばらくすると全国的な過剰生産で相場が暴落・低迷し、農家は苦境に立たされる。
「10年しか持ちませんでしたよ。昭和43(1968)年にはすでに大暴落が起こった」
ミカン農家だった大津の父は経営がうまく行かずに離農した一人だ。
ミカンを柱にした経営が苦しくなっていた時期に、狩浜地区の農業後継者3人が「こんな農業をしてもしょうがない」ということで意見が一致する。農業後継者グループの活動として74年、地区にある寺から農地15 aを借りて伊予柑の有機栽培を始め、この実験園を「無茶々園」と名付けた。収入の上がる品種に更新していくだけでは、経済の大きな変動には付いていけず、経営も地域も守れないのではという危機感があった。ちょうどレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の日本版とされる有吉佐和子の『複合汚染』が出版され、ベストセラーになった時期で、愛媛県内では自然農法の提唱者である福岡正信が知られるようになっていた。
とはいえ、最初の数年は「自然栽培」と「有機栽培」の区別もつかなかったという、白紙からの挑戦はなかなかうまくはいかなかった。農協を通して出荷した伊予柑は、見た目が悪いために大半が加工用になり、経営的に成り立つものではなかった。当初の市場出荷から方向転換し、70年代末から80年代にかけて自然食品店や生協といった販路を切り開いていった。79年には実験園のみで生産していたのをそれぞれの農家の園地で栽培するようになった。
「農家の集団」は
消費者に育てられた
大津が無茶々園にかかわるようになったのは80年代で、有機栽培の柑橘が珍しいことから販路が徐々に開けていった時期だ。まだ農家の集まりで組織にはなっていなかった。大津は父親の離農のために農地がなく、地元で運送業をしており、無茶々園は顧客だった。温州ミカンの市場価格の低迷で、農家の会員数は順調に増えていた。
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大津清次 オオツセイジ
代表取締役
㈱地域法人無茶々園
1965年4月生まれ。89年、農事組合法人無茶々園に入社。現在、㈱地域法人無茶々園代表取締役、㈱百笑一輝代表取締役、地域協同組合無茶々園専務理事。30aで柑橘を生産している。地域協同組合無茶々園は2016年、農林水産祭表彰事業のむらづくり部門で天皇杯を受賞。
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