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新・農業経営者ルポ

農山漁村に根を張り、地域協同組合を引っ張るリーダー


「当時、生産者だけで回していた無茶々園に一取引先の運送屋としてかかわり、わあわあ言い合いながらやっていた。宅配便のシステムも整っていなかったから、日々仕事をこなすことで手一杯。がむしゃらにやっていた時期だ」
89年には農事組合法人無茶々園を設立。このとき23歳だった大津が社員第一号となり、しかも入社当初から専務に就任した。「なんにも専務」だったと大津は言う。
「最初はとにかく自分たちのものをなんとか売らないといけないという時期で、単なるミカン農家の組織だった」
そうしたなかで、有機農業でミカンを作ることの意味を、消費者の側から教えられたという。消費者と生産者、研究者で作る日本有機農業研究会に「有機農業でミカンを作ったから取引先を教えてくれ」と依頼したところ、「単純に有機農産物を作って、産直で売るというだけの考え方ではだめだ」と一喝された。
せっかくミカン畑で有機栽培をしても、合成洗剤を使ってそれが海に流れ出しては海が汚染される。とくにリアス式の地形では磯の植物性プランクトンが死んでしまう磯焼けを起こしやすい。有機栽培をきっかけに環境循環や地域のことまで考えるべきだと教えられた。こうして農業を主体に海と山と段々畑を有機的につなげる町内複合経営という、いまに至るまでの基本方針が作り上げられていった。

海、山、雇用まで循環させる

まずは売らなければという創設期を過ぎた段階で、当初から掲げていた環境循環型の組織を具現化していく流れになった。91年に地元の網元祇園丸と提携し、ちりめんじゃこの販売を始め、翌92年には真珠の販売を始めた。
「ミカン栽培だと、愛媛の農薬散布基準では18成分だが、無茶々園ではなるべく使用しないし、合成洗剤を使わないように廃油石鹸を自分たちで作って全戸配布する石鹸運動もやっていた。海も山も含めて持続可能な環境を守ってこそ地域の産業は成り立つ」
磯焼けを防ぎ、海藻類が育って小魚が住める環境にすることが大漁を生む。山里から流れ出るミネラルが海藻類や小魚を育む。無茶々園の価値は、海と山がつながり、都市と田舎の人がつながることだ――。大津は真珠の販売を開始する際、「真珠は扱ったことがない」と扱いに及び腰な生協に地域の課題を説明し、真珠の養殖を続けるためにも、無茶々園の取り組みと消費者の支援が必要だと説得して回った。
山だけではなく、海との関係も見直したことで、地場産業が無茶々園とともに発展する好循環を作った。

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