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人生・農業リセット再出発

明治維新、失業武士たちは……


新政府に追放された将軍徳川慶喜は駿府城に移って家臣1,200名と静岡に住みつき、明治2年、勝海舟の仲介で中條景昭をリーダーに金谷原開墾に入る。農民さえも手を出そうとしなかったこの荒地の開墾は、鍬を手にしたことのない武士たちには困難を窮めた。その上、破たんした幕府財政や、できたばかりで金のない明治新政府からは、約束されていたはずの入植後の援助金は全く支給されなかった。武士の農法は借金返済と収入の当てがない茶畑開墾のはざまで、なかなか進まず、食うや食わずの貧困と重労働の日々が続いたとある。
新幹線から見える茶畑からは想像もできないが、武士たちのその苦労した開墾悲話がなかったら、今日の広大な山裾に広がる静岡茶は無かったといえる。働かずして食うことのできた武士の世の中は、明治の御一新と共に消え失せた。当初、新政府は武士の職を解くにあたり、生活資金として金録公債を出し、その公債売買も許して、士から農・工・商へ転職させて生活安定を最優先させた。武士が士農工商の身分制度を厳しく作っていたのが、急転直下その百姓に職変するなど以前だったら考えられないことだった。
維新から15年後の1883年当時、広島県に居住した士族たちの調査報告が残っている。生計は豊かな方だという上等な士族は、わずかに5%。生活がさほど差し支えない中等程度の士族は14%。何とかその日暮らしをしている下等士族は70%。生計困難な無等士族が11%とある。実に8割以上の下等士族の1戸当たりの収入は月4円にもならないとある。コメに換算して8斗、現在の米価換算で1万円ほど。では下等士族は、その当時はどのような仕事に就いていたのか? 百姓が圧倒的に多く、他は日雇いや雑業である。時に恵まれた者が巡査や教員になっている程度だった。下等の9倍以上の収入があった上等士族になると官僚が多い。元大名や家老などは、武士階級が破たんしても世の変化につれて世渡りはちゃんとしていたようである。
武士は食わねど高楊枝とはいえ、世界はどんどん変化する無常。現代では、フィルムやレコードが昔物語になり、腕時計、週刊誌、新聞、牛乳配達などが消え始め、ITとAIが人間から職を奪うのは時間の問題だ。2020年東京オリンピックの公式時計は、誰もが当然と思っていたセイコーではなく、オメガに決まった。生物学者ダーウィンは著書『種の起源』でこう述べた。「賢いから、強いから生き残れるわけではない。日々変化する環境に適応できるかどうかが分かれ道である」

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