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特集

追悼 松尾 雅彦

去る2月12日、松尾雅彦氏が急逝された。ジャガイモの契約栽培などを通して地方の再建と農業の成長に寄与されたカルビー時代の業績は言うまでもない。さらに「日本で最も美しい村」連合副会長を務めるとともに、スマート・テロワール協会も立ち上げた。この特集では松尾氏の「人」と「思想」を振り返りながら、日本農業の在り方を考えてみたい。松尾氏の影響は過去以上に未来にこそ及ぶだろう。再掲載した過去記事を読み返してみても、その視点と手法は今でも輝きを失っていない。

松尾雅彦氏追悼座談会 松尾氏の農工一体の遺志を継ぐために

出席者
昆 吉則(本誌編集長)
山下 明郎((株)農業技術通信社監査役)
五十嵐 淳(一般社団法人山形県農業会議総務企画課課長)
浅川 芳裕((株)農業技術通信社顧問・ポテカル編集長)

【二度の訪米ショックでつかんだ40年来の目標】

昆 今月号の本誌は「松尾雅彦氏の追悼特集号」ということで、本日は生前の松尾氏をよく知る方々のなかから、弊社として関係の深い皆さんに集まっていただきました。とくに松尾氏はカルビーのポテトチップス事業に当初から関わり、幾多の困難を乗り越え同社だけで1000億円を超える産業に成長させました。その過程においては40年来にわたる一貫した思想・論理があり、集大成として取り組んだ「スマート・テロワール」構想も、その延長線上にあります。
浅川さんは2014年に発刊された松尾氏の『スマート・テロワール:農村消滅論からの大転換』(学芸出版社)の共著者であり、五十嵐さんは「庄内スマート・テロワール」で現地事務方を務めておられます。青果卸業からカルビーに転身され、カルビーポテト発足の時点から中心的役割を担われた山下さんは松尾氏の兄・康二氏(のちのカルビー副会長)と同級生で、幼少期から青少年時代の松尾氏のこともご存じです。まずは山下さんに松尾少年のことをお聞きしたい。
山下 松尾氏の実家は爆心地から1.5kmほど離れた場所にあり、たまに訪れていました。子ども時代の印象は「真っ黒けのやんちゃ坊主」。ただ、おとなしい子で、目立った存在ではなかった。そのおとなしい少年が、高校生の最後の年に生徒会長になったというのを聞いて、「おっ」と思いましたね。高校の卒業文集には「何かがやりたい、と思ったときにできる人間になりたい」と書いたそうです。
のちの松尾氏につながるエピソードを一つ明かせば、私が大学生時代の正月に帰省して松尾家に遊びに行った時のことです。4学年下の彼と政治かなにかの議論になったのですが、「粘り強くてしつこい」。いっぺんに酔いが醒めました。
昆 その松尾少年は大学卒業後に勤めた富士急行を経て、1967(昭和42)年に25歳でカルビーに入社し、「かっぱえびせん」の首都圏での販売拡大を狙うPRの一環として米国で販促活動をしようと11月に訪米します。米国で評判になれば、首都圏でも売れると考えたわけです。実は松尾氏には二度の「訪米ショック」があるのですが、これが第一次訪米ショックですね。

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