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イベントレポート

連続シンポ 北海道酪農の歩みと将来展望

酪農王国北海道150周年と町村農場創業100周年を記念し、北海道江別市にある酪農学園大学で酪農の過去、現在、未来が語られた。

講演1「自分が考える『酪農三徳』とは?」

宇都宮牧場 代表取締役 宇都宮治氏

私の生まれは札幌市厚別で、1963年の小学2年まで電話がない環境で育つ。牧場は小学6年のときに長沼へ移転した。独特の価値観を持つ祖父母や父母に育てられ、その生活は牧場の中でだいたいをまかなう、自給自足に近いものであった。乳搾りや牛を眺めて過ごすのが好きで、祖父母と東京へ行ったときも都会に魅力を感じなかった。そして、酪農学園大学に進学し、実習で20日間過ごした十勝の酪農家に「あなたたちは立派だけれど人間らしい生活に見えない」と言われたことが心に残った。海外では、1年半弱アメリカ・ウィスコンシンの酪農家で実習があり、そこで楽しさや充実感を覚えたことで自分もこういう生き方がしたいと思った。
現在は私が4代目で、酪農を始めたのは曾祖父の仙太郎になる。当時の酪農はベンチャー事業のようなもので、酪農をビジネスとして確立させた。祖父の勤(2代目)は、種雄牛の販売やホルスタイン登録事業で生計を立てた。父の潤(3代目)は、優良乳牛や種雄牛の販売、酪農家主催の共進会を開始した。祖父も父も職人肌で、一生懸命取り組むとバランスを欠くタイプであった。
私は、祖父や父とは異なってバランス感覚があるが、スペシャリストにはなれないという性格である。父の下で働いていたが、33歳くらいのときに父が体調を崩し、突然後を継ぐことになる。当時は、牛の個体販売価格が低下しており、一番価格が安いときで現在の半分以下ほどであった。そこから自分のやり方を模索した。そのころ、さまざまな人の意見を聞くが、「銭勘定だけではない」「きちんと牛を飼っていれば、お金は後からついてくる」と思った。自分のスタイルを確立したのは40歳を過ぎてからであった。このころが一番仕事をしたと思う。

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