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イベントレポート

連続シンポ 北海道酪農の歩みと将来展望


ここ2、3年は人手不足が続き、デントコーンとTMRを止めた。その結果、草に手がかけられるようになり、草の良し悪しが牛にまともに表れ、牧草づくりの面白さに目覚め、「牛つくりのための草つくり、そのための土つくり」をしている。自分がやろうと思ったことが30年かかっておおむねできた。
曾祖父(仙太郎)の「酪農三徳」は、「健康に良い」「うそをつかなくてよい」「役人に頭を下げなくてよい」の3つであるが、私はそれぞれ「社会的ストレスが少ない」「人間性が大事」「補助事業に過度に依存しないことと自己責任」であると捉えている。
いまも昔も変わらないものは、牛を大事に飼うこと、そして時代を見ながら状況に対応することである。春に従業員が加わった。当人に聞くと、「2、3年間ずっと研修先を探していたが、宇都宮牧場にした決め手はうまく言い表せないけれど、他にはないものがここにはあったから」であるという。
きっとそれは、先代たちから受け継がれてきたものであり、それは「古民家のたたずまい」と同じ、文字や数字では表せないものなのであろう。

講演2「町村農場は酪農という生業にどう向き合うか?」

町村農場 代表取締役 町村均氏

私は、100周年を迎えた町村農場の3代目である。大学卒業後のサラリーマンをしていた20代のころは自分が農場に戻ることになるとは思ってもいなかった。
当時、町村農場(現在の旧町村農場)は父と兄が経営していた。私が戻る数年前から、旧農場の周りが家に囲まれ、行政から市街化区域指定を受けていた。兄が中心となってまとめあげた移転事業であったが、移転直後に急死した。我々兄弟は4人で三男一女。独身であった三男の私が30歳で後を継ぐことになった。その決断に迷いはなかった。
移転後の牧場は、昔の牧場の面影がなく、新しい酪農スタイルであった。昔は牛舎に牛をつなぎ、しゃがみながら搾乳を行なっていたが、フリーストール(ミルキングパーラー)方式へと変わっていた。人が立って搾乳でき、牛も牛舎ではつながれなくなり、牛にかかるストレスが軽減した。これを見たときにイノベーションを実感した。
町村農場は私で3代目であるが、北海道に渡ってきてからという意味では4代目になる。曾祖父の町村金弥は、福井県の生まれで、小学校時代に奉公先で商売を手伝いながら学校に通っていた。そして、奉公先の了解を得て、国費で勉強できる学校であった札幌農学校に2期生として入学するため、北海道へ渡ってきた。同級生には、新渡戸稲造、内村鑑三など名だたる人物がいた。農学校卒業後は真駒内にある官営牧場に就職。その後、さまざまな職に就き、最終的には大久保町(現在の東京都新宿区大久保)の町長となる。戦時中に疎開先の故郷、福井県武生で生涯を終える。

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