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人生・農業リセット再出発

知られざる、ある日の甲子園秘話

台湾へは東京から飛行機で3時間少々の距離だ。日清戦争で中国が日本に敗れた結果、台湾は1895年から1945年の太平洋戦争終結まで50年間も日本国内!であった。
九州と同じ大きさの台湾だが、そこには富士山よりも高い4000m近い玉山をはじめ、3000m級の山が258座もある。玉山は、日本時代は新高山と呼ばれ、真珠湾攻撃時の暗号“ニイタカヤマノボレ”でも知られている。西洋人たちは海上から観て、「Formosa・麗しの島」と名づけたが、19世紀以前の台湾は中国本土では「悪山毒水蛮雨の島」と酷評された未開の地で、伝染病が常に蔓延して平均寿命は30歳だったと記録にある。それが日本統治になると上下水道も飛躍的に充実して、1930年には八田與一が貯水量世界3位の烏山頭ダムを完成させ、潅漑水路は万里の長城の6倍に達する距離で荒地を一気に水田に変えて世界を驚かせた。日本で7番目の帝国大学も台北に創設されて50年間での教育や経済発展は目覚しいものがあった。
DNA調査によると中国大陸からではなく、8割が南方海洋民族とされる台湾人。地質学的にも地震が多い日本列島群の延長線上にある。台湾中部を襲った1999年の大地震では日本の救援隊も駆けつけ、瓦礫から探し出した遺体に整列して黙祷する日本隊員たちの姿がテレビ放映された。そして東日本大震災では、台湾から200億円もの義捐金が届いた。台湾人口2300万人の10倍もある米国からが100億円であるから、その深い思いは計り知れない。

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