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人生・農業リセット再出発

知られざる、ある日の甲子園秘話


そんな日本統治時代の1931年、嘉義(かぎ)農林学校野球部(嘉農)。今まで一勝もしたことがない無名の弱小チームだったのが、猛練習を重ねて台湾代表に躍り出て、満州や朝鮮からも集まる本土の甲子園大会へ出場することになる。それが映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2015年日本公開)になった。名門松山商業の野球監督をしていた近藤兵太郎が、生徒たちの日本人・漢人・高砂族の混成チームを特訓した結果だった。監督が掲げる夢みたいな高い目標設定に選手たちは戸惑うが、近藤は、「甲子園、甲子園!」と大声を出させて街中を毎日ランニングさせる。人前で何度も唱えていると、それは当然の事実なのだと脳が勘違いして潜在意識に刷り込まれる。そして、その声を聞いているまわりの期待度増加もあって、それに相応しい能力が本当に発揮されるようになってくるのだ。最終目的地からが出発起点になるように脳を錯覚させる効果的な訓練である。
私は、JAL国際線で30年間乗務員を経験してきたが、世界中のオリンピック金メダリストたちと話す機会に多く恵まれた。彼らの共通点は、勝つことよりも表彰台に昇った時に、誰に向かって、どのようなガッツポーズを取るか!の具体的なイメージを常に描き続けていたことにある。もう一人の自分を頭上の高い位置から客観的に観る“メタ認知”、能でいう“離見の見”である。
今年を逃せば来年卒業生には甲子園出場は無い。みんなで今だけに集中して実力を出し切れ! 加油(頑張れ)!と選手たちを鼓舞する。本土に乗り込んだ無名の台湾代表少年たちは、全国から集まった強豪を次々と破って勝ち進み、ついには決勝まで進んでしまう。台湾の投手は血まみれの指になっても投げ続け、選手たちの一球たりとも最後まで諦めないひたむきなプレーは、やがて、よそ者に冷ややかだった観衆の心を掴み、スタンドから「天下の嘉農!」と声援の渦が巻き起こり始める。惜しくも優勝旗は逃したが、その後、近藤監督は嘉農を四度も甲子園へ導いた。
ガンジーの“明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ!”を肝に銘じる、感動の名作映画だ。

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