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土門「辛」聞

イタリア紀行 ヨーロッパ米と日本米



モンディーナと早乙女が消えたあと

北イタリアの水田からモンディーナたちの姿が消えたのは、70年代初めのことだった。高度成長が、モンディーナを送り出していたイタリア南部にも波及、彼女たちを送り出すことが難しくなってきたのだ。同じ頃、日本でも早乙女による田植え風景が消えていった。ただ対応の仕方で日本とイタリアは差が出た。日本は田植機による苗の移植に移行したが、イタリアは種籾を直接田んぼに播く「直播」に切り替えようとしたことだ。
日本では、早くから田植機の開発が始まっていた。古くは1899年(明治31年)、宮崎県の農民発明家、河野平五郎が特許を取得したと何かの文献で読んだことがあった。高度成長が始まる1960年代に入ると、国の研究機関や農機具メーカーが本格的な開発に乗り出した。田植期の季節労働者である早乙女の確保が難しくなり、その対応が迫られたのだ。
国内の農機具メーカーが田植機の開発に力を入れるようになったのは、必ず売れると確信したからだ。当時の水田面積は300万haを超えていた。水稲作付け農家は500万戸もいた。これに対しイタリアの水田面積は平均して10万ha台後半。日本の20分の1程度しかない。一方、1戸当たりの耕作面積は、60年代での比較なら、イタリアの数十分の一。農家戸数が多い日本では田植機が大量に売れる基盤があった。
イタリアにも農機具メーカーはある。先に触れたフィアット社は大型トラクターを製造してきたヨーロッパ有数の農機具メーカーだ。大型農機の技術開発は得意でも、精密機械のような田植機の開発は不得意だったという、日本とイタリア間の工業技術力の差という背景もあったように思えてならない。
イタリアの直播も大きな曲がり角に来ている。一昨年、北イタリアの水稲地帯を視察した本紙読者のSさん(茨城県)は、「当初の湛水直播から乾田直播への移行が進んでいる」と説明していた。乾田直播への切り替えは、水を使いすぎるというクレームがEUから出ていて、それへの対応のようだ。
本誌2013年3月号に東北農業研究センターの笹原和哉氏が寄稿したレポートによると、除草という問題を除いての作業性は乾田直播に軍配が上がると指摘しておられた。

寿司だけに頼らないご飯文化の輸出

6月15日、里帰りされた森本さんと東京で再会した。現地で聞きそびれた話をうかがった。国産米のヨーロッパへの輸出のことである。

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