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そのアドバイスは違う形で的中した。農水省を揺るがす事故米事件が起きたのだ。米穀業者等が非食用に限定された事故米穀(事故米)を、非食用であることを隠して転売していたことである。
奥原氏は、その処理をめぐる部内調整でしくじってしまった。食糧部長として現場を指揮する立場にありながら、省内の打ち合わせで部下に責任を転嫁するような言動をとったのだ。それに当時の上司が抗議で席を立ったという話も後で耳にした。これがきっかけで部下に責任を押しつけるという人物評価が定着してしまうのである。
事故米事件は、当時の大臣が引責する大きな問題となった。事故が起きた当時の事務次官や局長以下、現職職員25名だけでなく、退職職員2名にも処分が下った。たまたま食糧部長になって流れ弾に当たった奥原氏も訓戒処分を受けた。
実は、それ以上の厳しい処分も受けていた。食糧部長の次の次に農林水産会議事務局長に転出させられたことだ。同事務局長は技官ポストで、奥原氏のような事務官が就くポストではなかった。プライドの高い奥原氏は、この人事は相当こたえたと思う。次官レースを半ば諦めたこともあったと思う。
それでも奥原氏には底力があった。その事務局長から消費・安全局長に転出、さらに11年に経営局長に就き、次官レースへの復帰の手がかりをつかむ。奥原氏にとってラッキーだったのは、12年に第二次安倍政権が誕生、農協改革が大きなテーマに据えられことだ。
さらに政界一農協嫌いの菅義偉氏が官房長官に就き、農協改革の司令塔になったことは、奥原氏に追い風になった。菅官房長官は、各省庁の指定職以上の人事権を掌握、やがては奥原氏の後ろ盾になっていく。
農地中間管理機構は省内でも「やり直し」の声が
経営局長の在任期間は、事務次官に昇格する16年7月まで5年の長きにわたった。経営局長時代の業績は1勝1敗という評価を、筆者は下している。改正農協法は大きな業績。農地中間管理機構は失敗策ということだ。
改正農協法は、「ミスター農協改革」と異名をとる奥原氏らしい内容だった。第1条で農協の理念を再確認させる条文に書き直し、将来の再編統合の道筋となるよう法制度を整備したことからほぼ満点に近い。国会で成立したのは15年8月。施行されたのは16年4月だった。それを見届けて自ら勇退を申し出ていたら、省内における奥原評は今とは違ったものになったに違いない。
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土門剛 ドモンタケシ
1947年大阪市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科中退。農業や農協問題について規制緩和と国際化の視点からの論文を多数執筆している。主な著書に、『農協が倒産する日』(東洋経済新報社)、『農協大破産』(東洋経済新報社)、『よい農協―“自由化後”に生き残る戦略』(日本経済新聞社)、『コメと農協―「農業ビッグバン」が始まった』(日本経済新聞社)、『コメ開放決断の日―徹底検証 食管・農協・新政策』(日本経済新聞社)、『穀物メジャー』(共著/家の光協会)、『東京をどうする、日本をどうする』(通産省八幡和男氏と共著/講談社)、『新食糧法で日本のお米はこう変わる』(東洋経済新報社)などがある。大阪府米穀小売商業組合、「明日の米穀店を考える研究会」各委員を歴任。会員制のFAX情報誌も発行している。
土門辛聞
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