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新・農業経営者ルポ

俵死すとも品種は死せず

公的機関や民間企業ではなく、個人が育種することはどの品目でも皆無に等しい。国内の馬鈴薯に限っていえば公的機関が大勢を占め、明治・大正の時代に海外から導入された男爵薯とメークインがいまだに君臨している。そんななか、突然変異育種法を採用し、個人で10もの品種を登録した人物が長崎県にいた。さらに、5点を申請していたが、これは登録に至らなかった。俵正彦その人は6月下旬、63歳で生涯を閉じた。しかし、往年の覆面レスラー「デストロイヤー」の異名を持つ「グラウンド ペチカ」をはじめとする彼の育成品種は、これからも日本各地で生き続けていくだろう。 文/永井佳史、絵/俵圭亮、写真提供/俵正彦

小4から一家の大黒柱

2017年3月、半年ぶり二度目の対面となる俵は突然、ある歌謡曲の一節を高らかに歌い上げた。内容は、自分にとって嫌なことや不都合なことは振り払わなければならないというものだった。己の信条に合致しているのかと思いきや、歌詞に対する批判が始まった。
「前に進みよる人間がな、そんなことで立ち止まっちゃならん」
要は、真正面から受け止めながら前進しろということだった。
俵は、馬鈴薯の育種で結果を残した。一方、ビジネスで成功を収めたとは言いがたかったが、小さいころから数々の困難に立ち向かい、それこそ身に降る火の粉を物ともせずに状況の打開に努めて余りある行動を起こしてきた。
俵家の出自は足利の落人で、九州に逃げ延びてから代々の当主は地頭(領主)として生活に不自由することはなかったという。農業に首を突っ込んだのは俵の父の正康が初めてだった。
米海軍が佐世保基地に駐留すると地域でいち早く馬鈴薯の生産を手がけて出荷したほか、耕耘機のメリーティラーを購入して実演するなど、名士として通っていた。発想力があり、馬鈴薯のマルチ栽培やハウス栽培を率先して取り入れたのも正康だった。島原半島北部で標高も250mに位置するとなれば出荷時期で南部の産地にかなわないが、それを先回りする方法として前進栽培を編み出した。ところが、仕事にはほとんど取り組まず、本業の製材所の経営も同様で、カネさえあれば地元の議会に貸し出したりしていた。
「お袋と婆がしょっちゅう泣いとった。じじん(祖父)も鎌一つ研げない人やった。よそは4人そろってちゃんと仕事するんやけど、女だけじゃできんけん。それで小学校3年のときに農業をすると決めた」
この時期に将来をテーマに作文を書いている。担任に褒められるのとは対照的に、祖父に家族の前でこっぴどく叱られた経験が少なからず関与した。アメリカで羊の牧場などと夢を語っているようでは家が潰れるぞという戒めだった。俵は5人兄弟の長男でもあった。これを機に小学校4年にして鍬を握っている。
人生の進路を方向づける意味では、小学校4年の国語の教科書で取り上げられていた和井内貞行に感化された。和井内は私財を投じ、魚が棲んでいなかった十和田湖にヒメマスの稚魚を放流し、幾度となく失敗しながらも養殖事業を成功させる。観光業への貢献も多大なるものがあった。個人的に儲けるのではなく、そこにかかわる人たちにも利益を享受してもらう考え方を学んだ。
俵少年は、当初から大人を上回る農作業をこなし、学問では岩石や鉱物に関する書籍を読み漁った。その活躍ぶりは母や祖母を安心させ、次第に笑顔がこぼれるようになる。それから農業高校に進学しようとするのだが、またしても正康が俵の前に立ちはだかった。

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