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新・農業経営者ルポ

俵死すとも品種は死せず


果樹の栽培ノウハウもないのに巨峰の苗を10?a分購入してきたのだ。いつものごとく何をするでもなければ、雑草がはびこり、樹も枯れる。お前が高校に行ったら誰が仕事するんだという常軌を逸した怒号が飛ぶが、入学には無事こぎ着けた。
農作物の生育は待ってくれない。そもそも俵が動かなくては生計を立てられない。高校卒業までは作付面積を3haで維持したものの、それとて帰宅後と週末だけでは手に負えなくなる。一例を挙げると、漬物用のダイコンを登校前に10?a分引き抜いておき、首切りと袋詰めは母と祖母に任せ、帰宅したら回収して集荷業者に受け渡すまでを対応した。周年では酪農があり、それと並行して農作業に勤しんだ。
その後、2000年に入り、正康が病床に伏せる。俵にとって良くも悪くもいろんなことがあったが、上述の歌謡曲のとおり、逃げずに食らいついていった。こんな親父でなければいまの自分はないと思える強心臓はこうして作られた。

アメリカから日本への成型ポテトチップの原料供給が俵のサインに委ねられる

1974年、高校を卒業した俵は、(社)農業研修生派米協会(現・(公社)国際農業者交流協会)の研修生の9期生として渡米した。諫早干拓での大規模農業を夢見ての旅立ちだった。6カ月の学課研修と1年半の農場実習があり、後者ではアイダホ州の農場に派遣される。最後は240haに及ぶポテト畑の管理を託されるまでになった。
ここでもさまざまな試練にさらされたが、絶対に逃げず、困っている人がいれば協力した。いくつか聞いたエピソードから意外な展開につながったものを紹介したい。
帰国が間近に迫ったある日、白人のスタッフが車両の運転操作を誤り、タイヤを宙ぶらりんの状態にしてしまう。ボス(親分)が車体の下に潜って対処するも解決しない。いら立ちが募るなか、しばらく様子を見て意図を汲み取った俵は、彼の指示より前に必要な工具を差し出したりしてサポートした。
1970年代半ばといえば、日本のポテトチップ業界の黎明期に当たる。国内の菓子メーカー数社が成型ポテトチップ用のポテトフレークを買いつけようと同州に乗り込んでいた。ボスは同州のポテト関係の重鎮でもあり、事故対応の件で俵を信頼した彼はお前がここに残ってサインしろと勧めてくれた。
だが、俵はこの提案を断る。弟たちの学費を工面していかなければならなかったからだ。ボスには到底飲み込めず、チャンスなんだぞ、自分の人生ではないかと誘うも、俵が首を縦に振ることはなかった。研修がその域を越え、現地人に雇用したいとまで思わせる働きをMasahiko Tawaraは示したのだった。

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