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新・農業経営者ルポ

俵死すとも品種は死せず



突然変異による育種に目覚める

1976年、長崎に戻った俵は、売り上げの増加には規模拡大が近道と考えたが、当時の農家は全般的に潤っており、農地を広げようにもなかなか表に出てこなかった。荒れ地の開墾や辺鄙な場所、土壌病害に侵された圃場をかき集めたほか、熊本や大分で出作りすることで、最終的には延べ40?ha強に達する。周囲が2haくらいで回しているところをその10倍だ。長崎のほうは小区画ゆえに大型機械にも頼れず、綿密にシミュレーションしたうえで、俵個人の労働力と、植え付けや収穫期の臨時雇用で面積をこなした。
1980年からは生活協同組合と取引を始める。それまでは慣行栽培を志向しており、「きれい」「おいしい」「貯蔵に利く」といったごく当たり前のことを意識して馬鈴薯を生産していた。
1982年、熊本は阿蘇で2haの草原を借り、処女地のため、土壌消毒を実施せずに無農薬でデジマという品種を栽培した。緑のじゅうたんに真っ白い花の帯――。視察した生協の職員が感激した。それを食べた消費者からこんな手紙が届いた。
「俵さんのような安全なものが食べたかった」
安全とは農薬を極力使っていないことを指す。府県の馬鈴薯の産地では、過作でそうか病や青枯病といった土壌病害に悩まされており、土壌消毒を済ませてから作付けするケースがいまも少なくない。その土壌消毒で俵は事故を体験していた。
とはいえ、唐突に無農薬に切り替えて病気が収まるのであれば、皆そうしている。長年農薬に依存してきた俵の長崎の圃場では土壌消毒をやめると次々と魔の手が襲ってきた。
何か手立てはないものかと検討した末に行き着いたのが品種の力による克服だった。それも交配ではなく、突然変異だった。文献を調べたところ、どれも冒頭に突然変異についての記載があり、アメリカのラセット・バーバンクをはじめ、日本が海外から導入した男爵薯やメークインが突然変異で生まれた品種だと認識したことによる。
俵の突然変異一号である「タワラムラサキ」をめぐっては自らの情報収集が役立つ。暖地二期作向け馬鈴薯の育種を担う長崎県総合農林試験場愛野馬鈴薯支場(現・長崎県農林技術開発センター農産園芸研究部門馬鈴薯研究室)に出入りしており、品種特性を把握したうえで圃場の病害発生リスクに応じた作り分けをしていたのだ。消費者、生産者双方のために土壌消毒の回避を念頭に置き、青枯病とそうか病に抵抗性を有する品種を育成しようとした際、頭にあったのがチヂワであり、その後継品種のメイホウだった。

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