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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

アメリカに行って来た 4



犯罪寸前の話

今はESTA(電子渡航承認システム)の導入で90日以内の滞在であれば、昔よりはアメリカ入国に関するストレスは少なくなった。アメリカがESTAの利用を認めているのはすべての国ではない。それだけ日本が豊かになった証拠だ。
ESTA以前はアメリカ入国に際し、機内で関係事項を記入した。質問には「共産主義者ですか」「ナチの協力者でしたか」「細菌兵器に関与しましたか」があったと記憶する。正直な日本人だったら自民党支持の共産主義者は入国できないことになる。ほとんど田舎の伝説の様に扱われていたので自民党支持の社会主義者には関係はないのかも。
21歳の時に6カ月のオーストラリア農業研修から帰ってきた。正直、物足りなかった。ではどうしたか。1978年6月3日に親にはあまり説明せず、同意もなしでアメリカに向かった。目指したのはビキニに金髪・ブルーアイが似合うハワイ。とりあえず1週間のんびりすることにした。
電話で今は無きパンナムの航空券を予約して、丸の内のカウンターで1年間オープンを確か17万円で購入した。当時はB2ビザと呼ばれ旅行会社を通じてアメリカの入国ビザを入手した。滞在可能期間は6カ月になるが現金も入国時に必要だ。21歳の若造に大金があるはずもない。さ~どうするとなった。犯罪寸前の話があった。とりあえずあるのは日本円で30万円だ。そこである人からこんなことを聞いた。
トラべラーズ・チェックを作り、紛失したことにして再発行してもらう。入国後は紛失届を出したトラべラーズ・チェックは必ずトイレに流す。つまり入国係員がアメックスに電話をしない限り見かけ上、2倍のお金があることになる。
当時のドルのレートは225円で22万5000円で1000ドルのトラべラーズ・チェックを作り……で、やりませんでした。
さすがにビビったのでしょうね。当時のハワイは今と違い21歳の若造にアロハ~ではなかった。入国係員は「何しに来た?」となることは想定していた。オーストラリア農業研修の時に同じくアメリカ・カナダ組の事前研修会でもらったメンバー表を持参していたので、係員に「彼らに会いに行きます」と伝えパスポートのスタンプを見せ「ほら自分もオーストラリアに行っているでしょ?」。係員は「お金は?」と聞いてきたので私は「1000ドルあります。帰りの航空券もあります」。怖い物知らずだったのですね。

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