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新・農業経営者ルポ

逃げずに前向きに繊細さを加味しながら挑んだ大規模経営

個人事業主である農家では、子が親に向かって意見するのは昔の時代ほど困難だったに違いない。しかし、多額の負債を抱え、農協から肩たたきに遭うような事態に至っては座して死を待つことはないだろう。北海道大空町の石原新太郎(62)は目前に迫った危機に接し、弟とともに状況の改善に乗り出す。方向転換後に不運な災難に直面するが、それにもめげず、主体性を持った経営で馬鈴薯の生産では北海道有数のレベルに成長した。 文・写真/永井佳史
2016年2月26日、北海道北見市のとあるホテルのセミナー会場に石原の姿はあった。馬鈴薯専門誌『ポテカル』の編集部が主催する「第4回インファロー技術研究会」のパネルディスカッションでパネリストの一人として登壇していたのだ。司会が経営概要の説明を促すと次のように淡々と語り出した。
「経営面積は135haで馬鈴薯は35ha……」
農林水産省による『2015年農林業センサス』(最新)で、北海道での販売目的の馬鈴薯の作付面積から経営体数を割った1戸当たりの平均は約5.5haになる。つまり、6倍以上の面積をこなしている計算だ。
彼にとって規模的には小麦が上だが、経営上の重要度でいえば馬鈴薯であることは間違いなかった。そこに至る歴史をひも解くと、苦境を乗り越えるがために導き出された答えが生食用馬鈴薯だったと気づくことになる。

拡大路線の末に借金1億5000万

石原の出自は香川県にあり、彼自身は石原家の十代目に当たる。六代目が明治20(1887)年に初めて北海道に渡り、洞爺村(現・洞爺湖町)へ入植して農業を始める。続く七代目が長万部村(現・長万部町)、網走町(現・網走市)と移住し、八代目が馬鈴薯でん粉工場を9年間営んだ後、現在の居所(現・大空町女満別)へたどり着く。石原の父で九代目の守は、昭和25(1950)年ごろから営農を引き継ぎ、次々と山林原野を購入して均平工事を行なうことで農地を増やしていった。それは地元にとどまらず、美幌町や網走市、東藻琴村(現・大空町)にまで及んだ。
「親父がやっていたころはね、農家に規模拡大の意欲があっても離農者が少なく、近所で農地を集めるのは無理だったんだ。当時も周囲の農家より面積が多かったから農業委員会の斡旋対象にもならず、それで隣町とかまで出ていっていたんだよね」

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