記事閲覧
高校を卒業した石原は弟の錠次とともに家業に入る。守からは労働力として当てにされていたのだという。就農当初の70年代半ばは多少手作業が残っていたものの、機械化はどんどん進んでいた。しかし、採算度外視ともいえる経営スタイルは限界に近づきつつあったのだった。石原と錠次も黙ってはおらず、親子での衝突は幾度となく繰り返された。早くも83年には経営移譲を断行し、石原主導の体制を築くことになる。
それからしばらく経った91年に転機が訪れる。馬鈴薯はでん粉原料用が中心ながら生食用も一部で手がけていた。食味も形状も自信がなかったわけではなく、自分のブランドみたいな売り方ができないかと模索していたときに運命ともいえる出会いがあった。それはたまたま取引していた肥料問屋の紹介で知り合った青果卸だった。その社長は初対面の石原にこう提案してきた。
「出生証明の付いたイモが欲しい」
トレーサビリティという用語が存在しない時代であり、ちまたでは産地偽装が横行していた。青果卸からすればこの由々しき事態を看過できなかったのだろう。石原としても出生証明なる言葉に突き動かされ、貯蔵庫の建設に舵を切る。
ところが、長年の投資がたたって所属農協からは債務超過を指摘され、実際、1億4000万円もの負債を抱えていた。錠次との分家や野菜に取り組むことも検討したが、最終的にはさらに借金を重ねて生食用馬鈴薯で勝負することに決めた。石原と錠次は後ろ向きではなく、手っ取り早い畑の売却には一切目もくれなかった。
「最初に考えたのは自分たちの空いた労働力をどう生かすか。北海道だから冬期間だよね。農協と組んで加工料とかを支払って何かする手もあったけど、農閑期の自家労力を活用すれば収益増に結びつく。いままでやってきた馬鈴薯の延長線上であれば不安要素もあまりないしね。
もちろん、取引先を仲介してもらえた運もあったよ。それまで販売を農協に委託してきた農家が、スーパーに直接売りたい気持ちがあって名刺を持っていっても新参者が相手にされる信用もないわけで、そういう意味でこの巡り合いは大きかったよね。ここが出発点になって馬鈴薯は生食用、加工用と膨らんでいったんだ」
240tの貯蔵能力を誇る貯蔵庫が完成し、付帯の選別機なども100%自己資金で準備して意気揚々と臨んだ商系出荷1年目だったが、あろうことか市場価格が大暴落する。このときは市場相場と連動する値決めだったため、そのあおりをもろに食らったのだ。これで借金を1000万円ほど積み増すことになる。それでも、取材がこうして実現しているということは1億5000万円の債務を完済したことに他ならない。事実、数年前に返済を終えている。石原は笑い飛ばしながら往時のことを振り返る。
会員の方はここからログイン
石原新太郎 イシハラシンタロウ
代表取締役
(有)石原農場
1957年、北海道女満別町(現・大空町)生まれ。高校卒業後、就農。26歳で経営者になる。2001年、(有)石原農場を設立し、代表取締役に就く。現在の経営面積は約130haで、秋小麦を43ha、春小麦を17ha、馬鈴薯を35.4ha、てん菜を24.5ha、小豆を6.8haと作付けする。身内以外の従業員はおらず、石原の弟、子息2人、妻の計5人で構成している。年商1億5,000万円(2017年)。
農業経営者ルポ
ランキング
WHAT'S NEW
- 年末年始休業のお知らせ
- (2022/12/23)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2022/07/28)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2021/08/10)
- 年末年始休業のお知らせ
- (2020/12/17)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2020/08/07)
