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特集

平成の日本農業 明日のために振り返る


この体質にはさらに別の側面がある。保護の手を差し伸べようとする親の側にも「農業を救える」力が本当にあるわけではない。ここには甘える側と甘やかされる側の「なあーなあー」のなれ合いがある。甘える側も甘やかす側も同じ穴のムジナでしかないわけだ。揃って死すなら怖くないということか。
2018年の10月、オランダ大使館の農業ミッションの一員として北海道を走り回った時に知り合ったオランダヴァーゲニンゲン大学の農業博士は、開口一番「オランダの農業者は研究者の論文や報告書など一切信用しない」と言った。「自分の目で確かめたこと以外、信用しようとしない」。ここには、指導する側と指導される側に強い緊張感がある。

【農業が本当に素晴らしい 仕事であるならば】

農業試験場の畑は整備されていて地力もあり、「そんなところで行なわれた試験結果など信用できない」という批判は昔からあった。北海道の中央農業試験場の元場長で、野菜博士として有名だった故相馬暁氏は、それに応えるべく試験場の試験結果だけでなく、おびただしい数の生産者の圃場での試験結果をも分散分析にかけて博士論文を書いた。反論の余地がないやり方で研究報告をまとめたわけである。
結論は見えているだろう。この「なあーなあー」の関係を断ち切って、自立への道を模索するのか、この馴れ合いの関係の中で、生きて死すか。選択すべきは前者以外にあり得ない。
それではどうすれば、希望をもって進むべき道が見えてくるのであろうか。それは、農業が食品やサービスを提供する先としての顧客の満足と自らの満足とのバランスとを真剣に考えることである。顧客の利益と自らの利益が最大となって両立するようなやり方を模索することこそが、どの仕事においても正しい進め方である。
人は生活の為に仕事をするという。しかし、自らの生活の為に仕事をするのは「どろぼう」であっても一緒である。ここにおいて、我々を「どろぼう」と区別する唯一の分岐点は、仕事を通じて顧客に満足を与えることができるかどうかである。国の保護が失敗する理由は、顧客として保護される側の農業者に満足を与えることを真剣に考えていないからである。あるいは、農業の顧客としての国民に満足を与えることを真剣に考えてなどいないからである。
顧客に満足を与えるとは必ずしもパンを与えることを意味していないことが、今日のこのテーマの中心課題である。いかにして、農業を通じて国民に希望を与えられるのか。それは、やればできるという背中を見せ続けることだ。子は決して親の言うことなど聞きはしない。しかし、親のやることをしっかりと見ている。子は知ったかぶりをする親が本物か偽物かを見分けようとしている。

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