ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

平成の日本農業 明日のために振り返る


そうした状況で、政権を奪取されないようにするためには、農村票を奪い返し、高米価維持による補助金バラマキに戻らないといけない。必然的に生産調整を強化しなければならない、という発想になったんでしょうね。それでも09年には下野してしまうわけですが。
昆 それでも07年から品目横断的経営安定対策が本格導入され、基本的には農業者の選別を行なう政策も並行して進んでいくはずでした。
大泉 補助金改革自体は構造改革とセットで実施されています。これは1993年のEUの補助金改革と同様の考え方で改革志向の強いものでした。しかし、この補助金改革も参院選の大敗を受けた自民党農林族の動揺により、本格導入からわずか1年で見直されます。これも07年12月に、4haや20haの規模要件を満たさなくても、市町村が担い手と認めれば対象にできる特認制度が盛り込まれ、事実上全農家が対象になってしまいました。
昆 まだ当時の農業利権サイドは、構造改革や選別政策を受け入れる感覚にはなっていなかったということですか。あるいは政策的にコメの市場化を一気に進めようとしたことに対する抵抗だったのか。
大泉 一番は農林族政治家の問題で、農村票の離反が気になって不安に陥ったということでしょう。さらに昆さんがお使いになっている「選別政策」という言葉は、構造政策を批判するために使う言葉であって、農村のなかでは批判的に響いていたのも確かです。構造改革は、選別政策の農家切り捨てであり、許せないといえば、「その通りだ」と受け取られる素地は農村内にあったので、農地面積で担い手を限定し補助金の対象とした政策の導入には抵抗感が強かった。
とくに兼業農家維持政策にどっぷり浸かってきたなかで、担い手を限定するのは農村世論においては時期尚早だったということかもしれません。さらに構造政策に対する反発は、当時の格差社会を問題視する考え方と相まって農村社会で広く受け入れられたんだと思います。
昆 米政策改革大綱の決定から一周回って決定前の地点に戻ったという感じですが、農水官僚は米政策改革大綱を策定したくらいですから、従来型のバラマキ政策は限界だという認識は持っていたわけですよね。
大泉 1999年の食料・農業・農村基本法の制定時には、農業経営者が中心になった農業を行なわないと大変なことになるという認識は持っていたと思います。その危機感が米政策改革大綱の決定と2004年からの実施に表れていたわけです。同時に、農業のトライアングル、政官業のトライアングルがまだ機能していたことが露わになったのが07年の政変でしたね。

関連記事

powered by weblio