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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(1)アメリカ帰りの開拓者精神を後代まで継承

戦前のアメリカはカリフォルニア州で大成功を収めた日本人農業経営者というと、ワイナリーの長澤鼎やコメの国府田敬三郎が思い浮かぶだろう。ここにもう一人知ってほしい人物がいる。その二人と同じ時代を生き、「ポテト・キング」や「馬鈴薯王」と称された牛島謹爾(きんじ)である。手間のかかるポテトの生産を3万エーカーで行ない、全米の市場を左右したといわれた。彼の農場では監督者のような立場で働く同郷出身者がいたが、そのうち井上藤藏という男の子孫だけがいまも福岡県各所で農業に携わっている。3回シリーズで取り上げる第一弾は久留米市の(有)久保田園芸に焦点を当てたい。 文・写真/永井佳史、写真提供/久留米市教育委員会、(株)梓書院

戦前のアメリカで3000人を束ね、3万エーカーでポテトを作った牛島謹爾

100年ほど前の大正14(1925)年、筑後国久留米藩三潴郡(現・福岡県久留米市)生まれの牛島謹爾がアメリカはカリフォルニア州サンホアキン郡の三角州地帯を兄や同郷の者らと開拓し、3万エーカー(1万2240ha)を超える規模でポテトを生産していた。参考までに現在の日本国内で最も作付面積の多い北海道の帯広市でさえ3500ha程度に過ぎないことからすると、その壮大さに圧倒されるだろう。影響力は当然大きく、同州産の全産額の8割5分を彼のシマ・ファームが占め、全米の市場を左右したといわれる。アメリカではジョージ・シマと名乗り、「ポテト・キング」や「馬鈴薯王」の異名を取った。在米日本人会の初代会長も務め、大正15(1926)年に逝去するまでの18年間、数百万ドルに及ぶ私財を投げ出して日米親善や排日運動の緩和に尽力した。
現代のように機械化も十分に進んでいなかった時代であり、しかも場所は外国である。一説によると農場には国籍も多様な3000人の人間が集っていた。それに対し、農場を運営しながら労働者を管理していたのが謹爾と同郷出身の日本人だった。その一人に井上藤藏という人物がいた。

ポテト・キングの農場で働いた井上藤藏と、その子孫たちによる福岡での農業経営

謹爾や彼の農場で仕事に携わった日本人の子孫で、その後も農業に従事したのはこの井上藤藏の子孫のみだという。今回取り上げるのは井上の次女・芳子と結婚した久保田民藏の3兄弟の長男・寿の(有)久保田園芸(福岡県久留米市)に関してになる。ちなみに、昨年他界した次男・稔の(有)久保田農園(福岡県糸島市)は次回に譲るが、両社は業務上のかかわりがあるため、若干触れることにする。
寿や稔の祖父に当たる井上藤藏は、22歳のときにシマ・ファームで働くべく渡米した。後年婚姻した井上には妻との間に二男五女がおり、その次女が寿や稔の母の芳子になる。芳子はアメリカの謹爾の私邸で生まれ、帰国後に久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業している。
そんななか、父・井上藤藏の一言で農家の久保田民藏に嫁ぐことになる。長男・寿を身ごもった際には民藏が出産を待たずして第二次世界大戦に出兵したものの、無事帰還する。それから民藏は農業一筋で生計を立てていくことに決めた。

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