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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(1)アメリカ帰りの開拓者精神を後代まで継承


民藏は福岡県内の農家の出であり、義父の井上藤藏のようにアメリカで農業を経験したわけではない。そして、妻の芳子は高学歴と来ている。胸中は複雑だったかもしれない。実際、民藏からすると義理の娘である寿の妻にこっそりとこんなことを話していたそうだ。
「(妻の芳子を指し、)これだけの嫁じゃ、わしも苦労したばい」
ただ、これは否定的な発言ではなく、前向きに捉えての言葉だったのではないかと思われる。育った環境の違いを受け入れ、義父の井上藤藏や妻の芳子が謹爾、あるいはアメリカから体得した思想を吸収したい。それを裏付けるかのような回想を寿が始めた。
「親父(民藏)もお袋(芳子)と一緒になってから考え出したんじゃないですかね。祖父母(井上藤藏夫妻)が尊敬してやまず、お袋も口にする牛島謹爾とはどんな人だったのか。そこに少しでも近づいて喜ばれたかったんでしょうね。そのかいがあってか、お袋からは終生、農家が嫌だったとは聞きませんでした」
民藏はアメリカの消費動向を意識していた。食生活の変化で日本でも野菜が浸透してくると見ると、米麦主体の作付けからゴボウやニンジンを一部取り入れる。消費者ニーズを探る一方で、経営的な視点も忘れず、農業で家族を養っていくには毎日収入があったほうが安定すると踏んだ。その点からも野菜は適当だった。ここで民藏と行動を共にするのが寿になる。

謹爾や藤藏の思想をベースに、親子でニッチな作物の生産に乗り出す

民藏から一緒に営農することを命じられた寿は中卒で家業に入る。そこには勉強すると農業から離れることになるという民藏の読みがあった。
寿の就農当初にキーポイントとなる二つの出会いに恵まれたのだが、その一つは福岡県の農業改良普及員だった。間近に迫った減反政策を機にこれから流行るのはトンネル栽培や施設園芸だとしてその指導を受けた。
「それ以前に資材はどこにでも出回っているわけではありませんでしたから、地元の久留米にはなかったので、福岡まで電車で135cm幅で長さ50mのビニールフィルムを買いに行きましたよ。親戚でタケノコを採っている人がいましたので、支柱はそれで代用することにしました。昔の普及員は互いに学ぶ姿勢があったことも付け加えておきます。それに支えられました」
減反政策が始まると、一筆だけコメづくりを断念してそこにガラスハウスも建てた。たびたび水害の起こる地域のため、設置場所は高台の農業用水を使わないでも半永久的に構えていられるような土地を選んだ。以来、半世紀近く経ったいまでも少々のレベルでは被害にさらされていないという。

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