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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(1)アメリカ帰りの開拓者精神を後代まで継承


作付品目の選定に関しては、一般的に自分で値段が付けられない市場流通に不満があり、そこで知り合った八百屋との交流が役立つ。1軒といわず、仲卸を含めそれこそすべての業者とコミュニケーションを取ることが勉強になった。なかでも料亭や寿司屋を取引先に持つ八百屋の店主から得た情報は、これまでつかんでいたものとはまったく異なっていた。その店主は今後清浄野菜が重宝がられるとしきりに訴えてきた。当時は肥料といえば下肥で、流通からすると衛生面で化学肥料に切り替えてほしいという願いがあったのだろう。その要望にはほどなく応え、肝心の作付品目はサラダ菜を採用した。
「和食の食材もいいですけど、いまから伸びるのはサラダ菜ですよということでした。その提案に乗って八百屋と契約し、毎日のように収穫して自転車で配達しましたね。なんで契約栽培なのかといいますと、私は高校に進学しませんでしたので、高卒で就職した友人の給料を日割りで計算してそれに負けない単価を設定する目的でそうしました」
およそ1週間で収穫できるカイワレダイコンの生産も手がけるようになった。作業は寿と民藏とが栽培ベッドを挟んで向かい合って行ない、二人で話しながら手を動かすのが常だった。
民藏は早くに父親を亡くしている。かわいがって世話していた馬に蹴られての事故だった。往時の寂しさや苦労を直接示さないまでも、親子の絆の大切さは会話を通して寿に染み入っていた。民藏は父親の死亡理由にしても、盲目的に馬が悪いと判断せず、本人が注意していなかったからこうした結末に至ってしまったんだと語っていたという。謹爾や井上藤藏の話題もそこに加わり、自然と先人を敬う精神が醸成されていった。
謹爾について補足すると、3万エーカーだの3000人だのと並べ立てたが、最初から成功し続けたわけではない。そもそも当地には謹爾が参入する前の30年もの間、白人が開拓を試みるも誰一人として手中に収められなかったのだった。そこで謹爾は兄などを頼ることにした。牛島家は200年来農業を営む旧家だった。開墾や耕作のために長兄の覚平を呼び寄せたほか、やがて遠縁の井上藤藏がメンバーに名を連ねた。謹爾は天災や体調不良が重なって破産を味わうもそれを乗り越え、一経営者の立場だけではなく、在米日本人会の会長として長きにわたって国家の間に立つ役目を果たしたのである。
そうしたことも民藏は耳にしていたのだろう。これを咀嚼したうえで寿や稔らに、そこからまた次の世代以降へと伝承されていった。

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