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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

蝦夷を望む 第2話


全行程に30日は必要だった。冬の間に木こりもできる米作りの農民を集めた。魚も獲れる情報もあったので数名の漁民も潜り込ませた。町民からは薬に詳しい者や産婆、反物屋など総勢60人の集団となった。
船で蝦夷に向かうが海流の関係で一度、日本海側に出る必要がある。楽な道が続く津軽を通れば日程は短くなるが、過去の因縁から簡単に通してくれる見込みはなかったので、八幡平の山々を乗り越え、南部藩とも親せき筋になる日本海側の久保田藩(秋田)に向かうことになった。
道中、病気やケガになる者、なかには逃げてしまう者もいたが、そのようなことは織り込み済みであった。陸路の最終地は秋田の土崎港になる。そこには蝦夷のさらに北の樺太まで航路をもつ北前船が寄港する。一度に全員が乗れないので三隻で向かうことになった。海上ではしけを予想したが海鳥が餌を求めて船上に舞い降りるくらい天候には恵まれた。ただ一度、遠くにオロシア国の船と遭遇した時は、改めて自分に与えられた責務の重要さに押しつぶされそうになった。
津軽の深浦、蝦夷の江差を経由してトフマコマフ(現在の苫小牧)を目指す。
防人の責任者となった勘三郎はいつも妻のつると一緒だった。
津軽海峡を過ぎるころに
「もうすぐだな」
そうですね、と言い船上で人目を忍んで手を握り合った。
2日も経つと、夕暮れ時のトフマコマフに静かに到着した。
「やはり春になって雪もないのに蝦夷は寒いな」
寒さ対策は万全であったが、獣の皮が必要になる意味が良く分かった。
荷卸された物は日々の生活に必要な物であったり、刀や鉄砲だ。途中寄港した津軽の深浦で買い入れた最新式の測量器具もあった。
「お待ちもうしていました。船旅大変だったでしょう」
先発隊として南部藩の三名が彼らを待ち受けていた。
到着した日は簡素な建物で宿を取ることになった。(つづく)

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