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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(2)代々の先取りと提案力で高級レストランのシェフの心をつかんで離さない

戦前のアメリカはカリフォルニア州で大成功を収めた日本人農業経営者というと、ワイナリーの長澤鼎やコメの国府田敬三郎が思い浮かぶだろう。ここにもう一人知ってほしい人物がいる。その二人と同時代を生き、「ポテト・キング」や「馬鈴薯王」と称された牛島謹爾(きんじ)だ。このたび、2024年度から1万円札の新紙幣の顔になることが決まった渋沢栄一が日本工業倶楽部で追悼会を主催したほどの人物でもある。手間のかかるポテトの生産を3万エーカー(1万2240ha)で行ない、全米の市場を左右したといわれた。彼の農場では監督者のような立場で働く同郷出身者がいたが、そのうち井上藤藏という男の子孫だけがいまも福岡県各地で農業に携わっている。3回シリーズで取り上げる第二弾は糸島市の(有)久保田農園に焦点を当てたい。なお、第一弾は2019年3月号に掲載した。 文・写真/永井佳史、写真提供/久留米市教育委員会、(有)久保田農園、ホテル日航福岡

kgではなく、グラムの商売

登場人物の相関関係から押さえておきたい。
井上藤藏の次女・芳子と久保田民藏との間には3人の男児が生まれた。長男が第一弾で既出の(有)久保田園芸(久留米市)取締役の寿、今回の(有)久保田農園(糸島市)の立ち上げ直後からかかわった次男の稔、そこに途中で加わった三男の仁(めぐみ)がそれになる。久保田農園では現在、稔の長男である真透(まさゆき)が代表を担い、妹と妻の3人で役員を構成している。
稔は昨年2月、70歳で他界した。生前に深い親交があり、告別式では弔辞も読んだホテル日航福岡の総料理長を務める中橋義幸に聞いた話をまずは交えて稔と久保田農園を追いたい。
「私は、ホテル日航大阪から1989年にホテル日航福岡へ移ってきました。こちらで取引することになった仲卸業者の熱心な営業マンに、会っておいたほうがいい農家の紹介を頼んだところ、最初に引き合わせてもらったのが久保田稔さんでした。
農業というと、作業がきついとか、天候に左右されるとか、あんまりいいイメージがありませんでしたけど、久保田さんは全然そういう雰囲気じゃなかった。将来を見据え、農業はこうあるべきということをちゃんと語った唯一の生産者でした。なかでもこの言葉がずっと頭にあります。
『これからはグラムの商売、グラムの農業』
もう一目ぼれで、それからすぐに取引させてもらいました。
非常に熱い姿勢をそのままに、いい加減なことは口にしません。計画を持って約束もしっかりと守ってくれる。人柄も良く、他の農家とはまったく異なる視点で世の中を捉えているのが本当に印象的でした」
農業高校を卒業した稔は、父の民藏が久留米と違って霜の降りにくい土地として進出していた糸島へ1967年から定住して営農に着手する。これは民藏の構想によるもので、息子3人を農業の道に進ませるのだが、舞台は個々に用意した。長男の寿は自身と一緒に久留米、次男の稔は玄界灘に面した糸島、三男の仁については別府温泉に近い大分県の飯田高原(九重町)というプランがあったが、正味半年しかない栽培期間でリスクが高かったことから、経営は別ながら稔と同様、糸島へ落ち着いた(注:後々従業員として合流)。今後は野菜の時代がやってくるという見通しをベースに、作期分散や対象市場を検討しての結論だった。ちなみに、後になって寿と稔が飯田高  原にも農地を展開している。
そんななか、稔は、より収益性を向上させるべく、家族経営から雇用型経営への方針転換を打ち出す。民藏や寿の久保田園芸が取り組み出していた、当時の福岡県内ではほとんど生産されていなかったオオバに稔も乗り、さっそく1968年にはサラダ菜や春菊、ホウレンソウといった軟弱野菜から切り替えた。

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