ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(2)代々の先取りと提案力で高級レストランのシェフの心をつかんで離さない


しばらく経った1983年に転機が訪れる。稔は、順調なオオバの生産に危機感を覚えていた。同じことを続けていたら落ちていく。中国野菜などにも手を出して模索していた。
母の芳子を伴って謹爾や祖父の藤藏が活躍したカリフォルニアの農場を視察したときのことだった。知り合いでもあったその農場でコリアンダー(注:パクチーのことで、ハーブ類の一種)を目にする。一品に対してごく少量しか用いない、香りつけの植物だ。そこではコリアンダーのほか、日本野菜を現地の日本料理店へ納めていた。稔は、それをヒントに、日本でハーブ類や西洋野菜を西洋料理店へ出荷することを思いつく。
帰国から間もなく栽培に取りかかる。しかし、当時の日本では食用のフレッシュハーブの生産が少なく、種子の調達すら困難だった。欧米に出向いては飲食店や種苗店で売れ筋をリサーチし、国内に戻ると図鑑や料理雑誌なども調べて試作を重ねた。そうして栽培技術が確立していなかった時代にハーブ類の専作経営へ移行していったのだった。オオバの生産では冬に暖房が必須だが、ハーブ類ではそれが要らずに周年供給が可能なことも大きかった。
次第に外食ブームや食の洋風化の流れが到来するとハーブ類の需要も高まり、栽培に挑戦する品目を増やしていく。そんなさなかの1989年に稔と中橋は出会う。稔がグラムの商売と述べた背景にはこうした経緯があった。

2割の“遊び”畑で商品化できる作物を探る

中橋は稔との間を介さないキャッチボールを望んだ。稔はどうかといえば変わらぬ気持ちだったそうだ。中橋が畑に通えば、稔はおもしろいものができたとホテルへ持っていく間柄になった。
いまもそうだが、久保田農園には“遊び”の畑がある。農地の2割くらいは商品作物を作らず、商品開発に充てる場所としている。海外視察を繰り返した稔は、現地で珍しい種子を入手するとその2割のスペースで試験的に栽培し、収穫しては中橋の元まで駆け込んだのだ。厨房で即興の料理が始まると、用途の幅や使用時のサイズに話題が及んだ。稔は、商品化が可能と見るや、8割の商品作物ゾーンに移し、数年後には定番として流通させていった。遊びといえどもビジネスにつなげていく合理的な手法がそこにあった。この類の余裕を持てる農家はそうそういるものではなく、その点からも中橋は稔にますます惹かれていった。
コミュニケーションは直接でも商流は崩さない。基本的に直売せず、注文出荷で自らが仕切った価格で卸売市場へ出荷する。これが稔の経営哲学の一つだった。中橋もそれに沿った。

関連記事

powered by weblio