ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(3)進取の気性で開園した自然植物公園に島の人口の200倍を呼び込む

戦前のアメリカはカリフォルニア州で大成功を収めた日本人農業経営者というと、ワイナリーの長澤鼎やコメの国府田敬三郎が思い浮かぶだろう。ここにもう一人知ってほしい人物がいる。その二人と同時代を生き、「ポテト・キング」や「馬鈴薯王」と称された牛島謹爾(きんじ)だ。2024年度から1万円札の新紙幣の顔になることが決まった渋沢栄一が日本工業倶楽部で追悼会を主催したほどの人物でもある。手間のかかるポテトの生産を3万エーカー(1万2240ha)で行ない、全米の市場を左右したといわれた。彼の農場では監督者のような立場で働く同郷出身者がいたが、そのうち井上藤蔵という男の子孫だけがいまも福岡県各地で農業に携わっている。3回シリーズで取り上げる第三弾は福岡市西区能古島の「のこのしまアイランドパーク」に焦点を当てたい。なお、第一弾は2019年3月号に、第二弾は同5月号にそれぞれ掲載した。 文・写真/永井佳史、写真提供/久留米市教育委員会、のこのしまアイランドパーク、参考文献/『島を拓く』(酒井俊寿著、西日本新聞社発行)

福岡市内有数のサツマイモ農家が視察をきっかけに農業から転身

今回の舞台は福岡市内の島になる。博多湾の中央に浮かぶ能古島は、南北3.5km、東西2km、周囲12km、面積3.95平方kmの小さな島で、ひょうたんのような形をしている。福岡県本土とは2kmしか離れておらず、フェリーで10分だが、近いようで遠いこの隔たりなどを理由に、当時19歳の久保田耕作は1953年に農業から観光業への切り替えを決意するのだった。
本稿の第一弾と第二弾で登場した久保田寿、稔、仁(めぐみ)の3兄弟と耕作とはいとこの間柄になる。戦前、耕作の祖父・久保田春次は残島(注:1941年に福岡市に編入され、能古島となる)北端部の土地に目をつける。彼はそれまでも事業家的に農地を購入しており、息子の清(耕作の父)や甥の民蔵(寿たちの父)らを家に住まわせて農業に従事させていた。耕作の聞き書きである『島を拓く』によると、その面積たるや戦後の農地解放の際、17?haぐらいを失い、残ったのが6haだったというから相当な百姓だったと想像できる。
太平洋戦争が勃発する直前の1941年10月、耕作を含む清の家族は能古島に移住する。同年1月、春次が急逝したことで当初の予定が狂っての対応だった。当地は業者が開墾してから10年余り放置されており、電気も水道も通っていなかった。引越前もさすがにそれはなく、ランプと別れを告げる1952年まではみじめな暮らしだったという。
清は1943年に出征して1945年に復員する。その前後の清の働きぶりは猛烈の一言で表現できるようなもので、明るいうちは家におらず、昼食以外は鍬を手放さない。市内有数のサツマイモ農家に上り詰め、市場で「久保田芋」と呼ばれるなど、ブランド化されて高値で飛ぶように売れたという。
耕作は中学卒業後、清の右腕となって農作業に励む。日本一の農家を目指していた彼は、ブラジルでの営農を模索するほど農業にのめり込んでいた。
そんな折の1953年、19歳の耕作は、取引市場の計らいで先進地視察の機会を得る。大阪と東京の市場では広い場内にコンクリートが敷かれ、梱包された野菜類が貨車1台分ずつt単位で仲買人に競られていた。対する耕作の1日の出荷量は500~800kg程度だった。狭い農地と輸送でハンディキャップを背負う島では、いくらがんばっても都会の低コスト・大量生産には勝てない。失意の下に帰郷した耕作が熟考した末にたどり着いたのは観光業だった。
これからは働き続けた人々が疲れた心を癒すために自然を求めるだろう。それならば福岡都心に近いこの能古島で島の景観を活かした自然植物公園を作ろう。
こうした筋書きに父である清は一切反対しなかったという。息子を立て、縁の下の力持ちのような具合で協力するのだった。

関連記事

powered by weblio