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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(3)進取の気性で開園した自然植物公園に島の人口の200倍を呼び込む


耕作は30歳で開園することを念頭に置き、まずは海が見える眺望や地形を活かした設計図を専門家に描いてもらった。それに沿ってサツマイモを生産していた畑にツツジやカイヅカイブキなどを少しずつ植栽していった。やがて親族3軒の夫婦も事業に参画し、1958年に井上睦子(井上藤蔵の孫、久保田3兄弟のいとこ)と結婚した耕作夫婦、清夫婦の都合5軒10人で共同経営を進めていくのだった。代表者には耕作が就いた。
開園に先立っては、1956年に灯台キャンプ村(現・能古島キャンプ村・海水浴場)をオープンさせ、その運営から乗り出している。また、客足の確保に船を建造しようと1966年には久保田観光(株)を設立したが、これは開園後に公営フェリーが
就航しそうな気配をつかんだため、自分たちで用意することはなかった。そして、3年後の1969年、ついにのこのしまアイランドパークを開園させるのだった。

経営権の譲渡話まで持ち上がるもコスモスが危機を救う

耕作が35歳の1969年4月2日、待ちに待った開園を迎える。当日は多くの人であふれ返ったが、それも長くは続かなかった。園内には他の遊園地にあるようなジェットコースターや観覧車などの遊戯施設はほぼ存在しない。植物だけの有り様に何もないではないかと失望する声が少なくなかったという。まだ癒しなる概念が世間に浸透していなかったこともあるだろう。
経営権の譲渡話まで持ち上がったなか、1979年に転機が訪れる。開園から10年が経って徐々に来園者数が伸びてきたこともあり、藪だった斜面を切り拓いてコスモスを植えたのだ。タイミング良くコスモスブームと重なり、1日で1万人を超える日も出てきた。それからも「ちびっこカーニバル」(現・春休みスケッチ大会、1978年)の開始や一戸建て宿泊施設「防人の里」の開設(1979年)、ふくおか'82大博覧会で昔の博多の街並みを再現した「思ひ出通り」の移設(1983年)、ゲートボールとゴルフとをミックスさせたオリジナルスポーツ「のこのこボール」(1984年)の創設など、できるだけ自然の姿で限りなく人工的なものから遠い世界観を貫き通しながら植物以外の仕掛けも打ち出していった。そうした甲斐があってか、人口が1000人にも満たない島に年間最高20万人が来園する盛況ぶりになった。

ディズニーランド出身の二代目が会社の基盤を整え、新企画も生みだす

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