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新・農業経営者ルポ

牛島謹爾シリーズ(3)進取の気性で開園した自然植物公園に島の人口の200倍を呼び込む


耕作の長男である晋平は1962年生まれで、中学まで能古島の学校に籍を置き、高校はフェリーに乗って福岡市内へ通った。その後、進学の段になった際、耕作から東京の大学か、アメリカに2年間語学留学するか二者択一を迫られる。考えた挙句、晋平は後者を選んだ。耕作から後継者に指名されていたわけではなかったが、兄弟は下に妹が2人という手前、将来は自分が後を継がなければならないと認識しての旅立ちだった。
英語をマスターして帰国した晋平は、マンションの販売会社に半年ほど勤務した後、オープンを目前に控えた東京ディズニーランド((株)オリエンタルランド)に正社員で就職する。1983年4月からはトゥモローランドのスペース・マウンテン(ジェットコースター)を担当したほか、エレクトリカルパレード(夜のパレード)のプロジェクトチームにも配属された。
「周囲からは先を見越して修行しにいったんだろうと言われましたけど、そうではなかったんです。カリフォルニアに住んでいたときに現地のディズニーランドに何回か遊びに行って感心していました。あの楽しそうな仕事で給料までもらえるならやってみたいという発想でしたね」
当時一番人気だったスペース・マウンテンは通常でも1日の利用者が2万人と、運営には手を焼いたという。それでも、エレクトリカルパレードを含め究極ともいうべきサービス精神を培いながらゲスト(来園者)と接した経験は晋平に多大なる財産をもたらした。最終的には耕作に促される格好で、24歳(1986年)のときに能古島へ戻ることになる。
そこで晋平を待っていたのは会社としての体をなしていない現実だった。耕作ら親族は50代半ばで、すべて農家の出になる。だからこそ労働には耐えられたといえる一方で、たと えばオフィスフォンの転送方法がわからず、予約電話も相手にかけ直しを依頼するなど、一般企業ではあり得ない実態が次々と浮かび上がった。
こうしたディズニー以前の問題の解決が差し当たっての業務になった。
「次世代を担う人材がいなければ会社自体が回らなくなります。求人しようにも社会保険に未加入だったり、諸々不備がありましたので、就業規則や給与体系を整備し、高校に求人票を提出したり、大卒の採用に向けたリクルート活動を実施しました。その他にも、会社案内やパンフレットの作成、従業員へのビジネスマナーの徹底、朝礼の開催、広報活動の一元化など、企業として当たり前の体制づくりに努めました」

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