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新・農業経営者ルポ

地域に愛される養豚業を目指して

(株)山形ピッグファームは、母豚数2400頭、年間飼養頭数4万8000頭で、養豚経営としては県内最大だ。その経営をけん引するのが代表取締役の阿部秀顕になる。同社は一時、環境問題を巡り、地域との間にトラブルを抱えた。それを乗り越えてからは、従来以上に「地域に愛される企業」になるべく努力を重ねている。地元と共にブランド豚を開発し、大規模化するにつれて希薄になっていた地域や消費者とのつながりを取り戻した。 文・写真/窪田新之助、山口亮子、写真提供/(株)山形ピッグファーム

継承後、効率化と社員教育強化

山形ピッグファームは、種豚の開発・改良から繁殖、分娩、肥育まで一貫して自社で手がける。適期に交配して繁殖成績を向上させるため、人工授精(AI)舎を2011年に建設した。ほとんどの交配がAIだ。13年には産子数の多い高繁殖性母豚の導入を始めた。この一貫体制の構築と、繁殖成績の向上を主導してきたのが、阿部秀顕だ。
父の秀俊が1965年に繁殖用の母豚を飼って子豚の販売を始めたことが養豚の始まりだ。78年に肉豚の飼育まで一貫して担うようになる。周辺の農家が廃業するのを引き継ぐなどして規模が徐々に大きくなった。そんななか、元々養豚場があったいまの本社の近くに山辺町役場が移転し、周辺環境が変化する。そのため、87年に町内の標高300mの山あいに大規模な養豚場「松山農場」を開いた。これをきっかけに規模拡大が加速し、88年には法人化している。
いまでは本社は事務所機能を持つのみで、松山農場と東根市の東根農場の2農場を運営する。法人化した当初は、天童市や寒河江市、山形市などに複数の農場が点在していた。それを合理化のために2農場に集約する。90年代末から2000年代前半に堆肥化のための巨大な施設を建設し、尿処理のための曝気槽や浄化槽も増築して環境対策を強化した。
「経営は基本的に父の路線を継承してきた。特別なことをしているわけではない」
こう言って謙遜する。阿部は次男で、兄が家業を継ぐものと思っていた。ところが、兄が継がないと宣言する。自分が継がなければと考えて岩手大学で畜産を学び、家業に入った。
父の代に急速に拡大した事業の効率化と、社員教育に注力する。病気のキャリア(運搬者)になりかねない種豚の生体導入(外部から生きた豚を連れてくること)をやめ、精液だけの導入にしたり、農場に入る際と出る際にシャワーを浴びるシャワーイン・シャワーアウトを導入したりすることで、病気や事故の発生を少なくすべく努力を重ねた。経営理念を成文化して社員と共有し、社員
の意見を積極的に聞き入れ、定着率
が悪かった部分を徐々に改善してきた。

養豚に誇りを持てなかった自分に気づく

阿部を突き動かす原体験がある。家業に入って1年が経ってから研修で訪れたアメリカでのことだ。
「研修先のアメリカで『ピッグショー』(豚を評価するイベント)があった。豚のコンテストで飼っている豚のことを誇らしげに語る子どもがいたりして。そのとき、自分は豚にご飯を食べさせてもらっているけど、豚に誇りを持っていないと気づいた。帰国してからは、地域で認められるような産業にしたい、こういう産業があってよかったと思われたいと、これまでやってきた」
研修中、最先端の人工授精技術や大規模経営に触れ、刺激を受けた。何より驚いたのは、経営者や労働者、その家族の養豚に対するモチベーションの高さだった。
山形ピッグファームが松山農場に移ったのは、多頭化による臭いや排水の問題、加えて周辺住民のライフスタイルの変化があり、元々の場所で養豚を続けるのが難しくなったためだ。それもあり、地域から迷惑がられる存在として養豚を認識していたところがあった。だが、訪米が転機となって見方が変わった。
経営理念の三つ目に掲げる「私たちは環境を思い、地域に愛される企業を目指します」は、そんな阿部の思いを強く反映している。社長に就任してからは、地域に愛されるための布石を続けざまに打ってきた。その象徴的なものが、山辺町産のコメを食べて育ったブランド豚「舞米豚(まいまいとん)」の開発だ。

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