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新・農業経営者ルポ

一鍬ずつ切り拓いた原野

愛媛県にある西日本最大のカルスト台地・四国カルストは「四国の屋根」と呼ばれる。その標高1000mを越える高地にある大野ヶ原には牧草地が広がり、すり鉢状の地形に畜舎やサイロ、家屋が点在する。黒河高茂(90)は、戦後間もなくこの土地に入植し、熊笹の生い茂る原野を畑に変えた。戦後に開拓されたなかで最も厳しい条件といわれた場所で、酪農と高原野菜という農業経営のモデルを打ち立てたのだ。経営は長男の正高(61)、そして孫の尚紀(23)と佳紀(21)に引き継がれている。 文・写真/窪田新之助、山口亮子、写真提供/黒河高茂

高冷地の気候を生かす

大野ヶ原へと続く大規模林道は、急峻な山の斜面を幾度も蛇行しながらぐんぐん上へと登っていく。車を走らせてすぐ、下界とは違うひんやりとした空気を感じるようになった。30分ほど上へ上へと登っていくと大野ヶ原に出る。気候は青森や北海道に近く、取材に訪れた秋口は、下界との温度差が5、6℃もあった。
集落が始まってすぐのところに、「高原やさい だいこん」と看板に大きく書かれた無人の直売所がある。ここを運営するのが黒河高茂だ。畑で収穫したダイコンを並べ、客に好きなだけ紙袋に詰めてもらい、買った分のお金を入れてもらう。愛媛や高知ナンバーの車がひっきりなしに直売所の前に止まる。車で2時間ほどかけて家族で訪れた男性は「毎年買いに来ます。味が全然違う」と言い、ダイコンを8本ほど紙袋に詰めていた。
「大野ヶ原大根」は愛媛県内はもちろん、四国ではよく知られたブランド野菜だ。下界でまだダイコンが出回らない8月から出荷を始め、季節を先取りする。果肉の軟らかさとほんのりとした甘みが特徴だ。鮮度を保つため、洗わず、土が付いたままで出荷する。
高茂に軽トラックで畑まで案内してもらった。森とのはざまにあり、なだらかな起伏のある畑では娘夫婦がダイコンの収穫をしていた。連作障害にならないよう、ダイコンを2、3年作った後は牧草地にする。畜舎で出た牛糞をたい肥にし、畑にすき込む。
「畑に有機質を十分に入れとります。そのため、病気に強く、あまり農薬は使いません。朝晩どんな日照りでも必ず露をかぶるので、水分が十分あって軟らかいダイコンができます」(高茂、以下同じ)
大野ヶ原では高冷地の気候を生かしたダイコンをはじめとする高原野菜やデルフィニウムといった花卉が栽培され、酪農も盛んだ。いまでは観光地でもあり、カフェやソフトクリームの販売店もある。周辺地域で過疎化が進行するなか、一度都会に出てもUターンする後継者が多く、集落には若者が多い。27世帯91人(8月末時点)の集落に未就学児と小学生を合わせると20人ほどがいる。
牧歌的な風景が広がり、後継者も戻ってくる、ある意味恵まれた地域だ。そんないまの大野ヶ原とはまったく異なる厳しい世界が、かつて広がっていた。畑の脇に群生している熊笹を指さし、高茂が話す。
「元々ここは熊笹と雑木が生えておったのを、一鍬ひとくわ、畑にしていきました。いまなら1日あったら、大概のことができますね。当時は、1日なんぼやっても14、5坪しか耕せないんですね」
高茂が大野ヶ原に入った当初、そこは何もない原野だった。戦後に開拓された土地のなかでも最も厳しいといわれた開拓の歴史を、高茂のこれまでの歩みを通じて振り返りたい。

開拓農業に将来を見いだす

高茂は1929年、愛媛県丹原町(現・西条市)で生まれた。14歳で
予科練に志願し、鹿児島県海軍航空隊に入隊。鹿屋航空隊で終戦を迎えた。特攻での死を覚悟していた極限状態が突然崩れ去り、これからどうすればよいのかと呆然としたという。その後、日本人が皆飢えに苦しむのを見て、「敗戦国日本を救わねば」という思いを強くしていった。開拓農業について知り、46年、松山市の愛媛県開拓基地農場で開拓者に農業を指導する職に就いた。

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