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新・農業経営者ルポ

一鍬ずつ切り拓いた原野


48年に静岡県にある農林省中央開拓講習所に入所し、全国各地から集まった仲間と共に実習と講義の両面から開拓農業を学んだ。翌49年に20歳で中央開拓講習所を修了し、愛媛県開拓基地農場の指導員になった。そして同年9月、大野ヶ原実験農場に着任する。
「当時はどこに行くにも歩かないかんので困りました」
初めて大野ヶ原を訪れたとき、バスの終着点は直線距離で20km近く離れたところにあり、ここからリュックを背負って歩いた。道路事情が良くなったいまも、かつてのバスの終着点から大野ヶ原までは車で1時間以上かかる。民家に1泊してたどり着き、熊笹と萱が生い茂るなかに拓かれた細い道の先にある、掘立小屋で暮らすことになった。電気がないので、下界と連絡するには毎回山を上り下りしなければならなかった。
仕事は作物の適地調査をすることだった。陸稲、雑穀、バレイショなどさまざまな作物を試した。しかし、なかなか成果は得られない。バレイショが5月末の霜で一晩で全滅したこともあった。現地には48年から7戸の実験農家が入っていた。ただ、農家は冬場になると地元に帰って日銭を稼ぎ、春に戻るという生活だった。なんの保証もなく、営農で生活できないため、残ったのはわずか1戸だったそうだ。
そんな状態にもかかわらず、50年に100戸の開拓計画が立てられ、国から認可が下りた。第一次募集として30戸が募集され、入植者が次々とやってきた。
「家もない、池の水を飲まないといけない、電気もない。そういうなんもない原始生活のなかで『さあ、入れ』といって、30戸を入れた。いまだったら人権問題ですよ」

自ら一開拓者に

土地の区割りは図面上で線引きしただけで、営農に適しているかどうかは考慮されていない。住む家はなく、水すら十分にない。入植者が大変な苦労を強いられているのを目にし、高茂は悩んだけれども、当時の立場では事態はどうしようもなかった。悩み抜いた後、職を辞して一開拓者になると決める。「いままでに学んだ開拓の知識を皆と共に共有してこの地に理想郷を築こう」との思いだった。こうして開拓者としての困難な道に踏み込んだのだった。
その後、開拓組合が結成され、高茂は21歳で初代組合長に就任。住宅の補助を受け、各戸の住居を確保し、開墾を進めていった。道路、水道、電気という生活インフラを整えた。「県に相当無理も言いました」と振り返る。

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