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新・農業経営者ルポ

自分で値決めする当たり前の経営を目指して

(有)熊野養鶏の代表取締役を務める熊野憲之は、二代目として家業に入ってから自分で卵の売価を決められない状況に危機感を抱いた。直売を強化し、いまでは四国中央市と隣の新居浜市に計5カ所の直売所を持ち、飲食もできる「たまご専門店熊福」を経営する。熊福の卵かけご飯は地元民やグルメ通の間で有名で、立地に恵まれないにもかかわらず、週末になると客が列をなす人気ぶりだ。独自のブランド卵「美豊卵(びほうらん)」の価値を高めてきた。 文・写真/窪田新之助、山口亮子、写真提供/(有)熊野養鶏

自分で値決めできないのはありえない

「養鶏業の仕組みに唖然としたんですね。こんなに危ない業界はないと思った。これは自分で値段を決めて自分で販売しないと、廃業もしくは倒産すると感じたんです」
熊野憲之は家業に入った直後のことをこう振り返る。当時、熊野養鶏ではほとんどの卵を商系のGPセンター(卵の選別包装施設)に原卵出荷していた。
「生産原価の7割以上を占めるエサの価格を自分で決められない。原卵出荷だと、販売する卵の価格も自分で決められないんですよ。そうしたら、飼育数の多いところが勝つに決まっているじゃないですか」
危機感に突き動かされ、経営を大転換すると決めた。熊野は養鶏農家の長男。父の敏彦が1955年に養鶏を始めた。ただ、もともと家業を継ぐつもりはなく、高校卒業後に香川県の予備校に通い、そこで専門学校に進学後、就職した。
転機は就職した商社で、鉄工所を相手に機械工具の営業をしたことだった。顧客である鉄工所に、後継者がいないから自分の代で閉めると話す経営者が多かった。
「鉄工所には1台数千万円するような機械があるんですよ。『そういった設備があるのに社長の一代で終わらせるのはもったいないよね』という話をしていたんですけど、あるときふいに、自分に置き換えたらどうなんだろうと思い返すことがあって」
熊野養鶏は81年、四国では初の「全自動鶏舎」を導入していた。集卵も給餌も空調も自動。糞を集めるスクレーパーも設けた。
「つぶすのはもったいない」
家を継ごうと決め、95年に家業へ入った。ほどなくして、冒頭のことを身をもって感じたのだ。
鶏卵価格の変動には、毎年の季節的な需給変動を受けた季節変動と数年を周期とする「エッグサイクル」があるとされる。のこぎりの歯のように上下するのだけれども、「いまは低迷期が長い」(熊野)。エサの原価が上がっているのに、卸値が安く、ひどい場合は原価割れするということが起きてしまう。
「自分で値決めができないのは、僕にとってはありえない商習慣だった。卵の相場はものすごく安く、生産原価で1キロ200円かかっているのに、引き取ってもらう価格が120円だったりする」

あえて半分以下に減羽

エサを安く仕入れようと頑張ったところで、何十万羽、何百万羽も飼うような大規模経営には到底かなわない。ではどうするか。
「自分で売る方にシフトしていかないといけない。価格決定権を自分で持たなければ」
熊野はこう決心する。それは、通常の養鶏業のあり方と対極にある経営をするということだった。「物価の優等生」と呼ばれる卵は消費者価格の変動が少ない。その一方でエサの原価は上がる傾向にあり、利益を生むために効率化、大規模化するのが常識だからだ。

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